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お母さんが「離婚します」と言い捨てて 家を出ていくシーン

2016-10-13 15:53:02 | Diaries
お母さんが「離婚します」と言い捨てて もう二度と振り返ることはない という決意とともに家を出ていくシーンだが、

お母さんに抱き付いたら 目の前に 女性特有のなだらかで丸みを帯びたふくよかな大きなおなかが迫ってくるぐらいの背丈しかないまだまだ小さい幼い子供だ。

突然の出来事だったがそれでもお母さんにとびついてわんわん泣いている。

いいか、大声をあげて泣いているんだ。ほんとうに終わるんだ。

交通事故などで不幸にも死んでしまい、離れ離れになってしまった人もいるだろう。

しかし、死んで離れ離れになるのではない。生きてこれからもどこかで暮らしていくというのに、

私はあなたのお母さんではない。というステータス、状態、地位の更新が延々と続いていくことになるかもしれないのだ。

時が何かを解決するというようなことを言った人もいるが、私と彼は、特別に、関係を持つつもりはないという
拒絶の意思の更新だけが、定期的に繰り返されていくだけである。

私と彼が、今後も多かれ少なかれ関係を持つことはない。口をきくことはない。という決意。感情、怒りが優先した、私と彼の関係を意識するたびに、もうこりごり、怒りがこみ上げてくるから、弁護士を通さないで私に話しかけてくるようなことはしないで、という、状態・ステータスが、生きている限り、永続的に更新されていくだけだ。

お母さんがまぎれもなくこれから家をあとにしようと玄関の方へと向かっていく。子供が飛びついて大声で泣いている。

芝居、舞台で再現できないんだ。

あなたのお母さんじゃなくなるかもしれないという現実が幼いながらにわかってしまったら、命がけで泣くしかないんだ。
それが無駄、意味をなさない。お母さんの意思はくつがえらないとわかっていても、さいごまで諦めてはいけない。そういうつながりなんだ。

リアル、現実のあなたの母が、今日からあなたのお母さんでもなんでもないからというようなことを言ってしまうという、これまで一緒にいた時間は何だったんだろうと思うような理解しがたい状況に直面したら、このような深刻な状況の中、なんでお芝居、ドラマ、映画の撮影、演技を続けているのだろう。

お母さんに駆け寄り抱き付いて大声で泣くという 場面を 台本として 舞台で 演劇として 演じ続けていることに何の意味があるのか。

命がけで 彼女は私のお母さんである と泣き叫び続けないと、あなたが全力を尽くしたということは 誰にも認めてもらえない。

大声で泣き叫んでいるシーンは、一回見てしまっただけで、のちのち何千回と思い出してしまうほど、耐えがたい現実であるであるはずである。

お母さんがもう二度と家には戻ってこないと出ていく決定的場面に遭遇したのに、自然に大声で泣けなかったというようなことは、
この地球に産まれはじめてお腹の外の空間、空気の中に飛び出していったというのに、何分経っても、何十分経っても、産声があがらなかったのと全然変わらない悲しい出来事である。

ここで喜怒哀楽、ここでこういう反応ができなかったらこれから先、生きていることに意味があるのだろうかというほどに、感情がおこっていない、生成されていないことになるからである。