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今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマで、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は亀井湧希(体育1・石橋)です!
皆さんこんにちは。体育専門学群1年の亀井湧希です。栃木県の石橋高校出身です。
今回、1年生リレーブログの執筆依頼にあたって、筑波大学野球部に入部してから今までを振り返り、今後の目標について書いたので、最後まで読んでいただけると幸いです。
本題に入る前に軽く自己紹介をさせてください。僕は2004年、5月14日、栃木県は宇都宮市で生を享けました。小さいころの記憶はほとんどありませんが、両親からの話によると、ウインナーが好きすぎて自分の親指をウインナーと勘違いして思い切り噛んで泣くということを3日に一回はしていたそうです。その時の痛みは何となく覚えています。
そうした茫漠とした幼少期を経て、小学3年生の時に父の熱烈な勧めで、野球部に入部しました。当時は練習に行くのが嫌いでしたが5年生になって本格的にピッチャーを始めてからは一転して練習が楽しみになっていました。ピッチャーを始めて約7年になりますが、投げることが楽しくなくなったことは一度もないと思います。
軽く終わらせるはずだった自己紹介がかなり延びてしまいました。本題に入りましょう。筑波大学野球部に入部してから半年以上たちましたが、毎日が失敗と反省の連続です。
心技体どれをとっても、リーグ戦に出て勝利に貢献できるレベルには程遠く、大学野球のレベルの高さを痛感しています。特に体の部分では、線が細く、柔軟性もない中で、なかなか思うようなペースで伸びず苦しんでいます。練習でも、一つの課題をクリアしてもまた別の課題が出てきて、その途方の無さに心が折れそうになることがあります。ただ、そう思った時に毎回心に唱えるようにしている言葉があります。
それは、「たった一度の成功で得た自信はたった一度の失敗で不安に変わる」という言葉です。
これは高校の監督にいただいた言葉で、私たちは、日々の失敗から目を背け、目先の成功ばかりを追い求めてしまいがちですが、そこで一歩踏みとどまって失敗と向き合うことで、一喜一憂せず、一歩一歩自分の目指す理想像に近づけると思います。課題は山積している状態ではありますが、頼りになる同級生、先輩方の力を借りて、より強固な自信を得られるように精進していきたいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。
体育専門学群1年 亀井湧希
石橋高校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマ
で、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は高嶋凪(体育1・市立向陽)です!
ブログをお読みの皆さんこんにちは。体育専門学群1年高嶋凪です。
私は小学校5年生に野球を始め、中学校では軟式のクラブチームに所属していましたが、そのクラブチームが2年生になる時に人数不足でなくなり、中学校の部活ではバスケ部に入っていたため2年間野球をはなれ、バスケに取り組んでました。実は、バスケの方が始めたのが早く、野球より得意だと感じていました。それなのにまた高校から野球を始めたのは野球が下手でも好きだったからです。野球は、上手いから勝つ下手だから負けるという単純なスポーツではなく、ひとつのプレーや流れなどで実力差がひっくり返るところがとても面白いスポーツです。私はその実力差をひっくり返すためにはどうすれば良いのかが面白くてより高校生の時にハマり、大学でも野球を続けようと決心しました。
しかし、大学の野球のレベルの高さは自分の想像を大きく超えるもので、野球の実力はもちろん、意識の高さにも驚かされました。
大学に入って自分の野球をする理由が明確になりました。それは野球が楽しいからです。それは単におちゃらけたりする楽しさではなく、勝負の楽しさや、自分の能力向上のための試行錯誤の楽しさが自分の野球の動力源なのかなと思いました。
現在私は、とても戦力にはなれてはおらず、逆に足を引っ張っている状態だと思います。なのでいち早く戦力になり、チームに貢献できるようになりたいと思います。先輩の方々の野球のプレーや、取り組みは、見習うことが多いのですが、それ以上に、人として尊敬する部分が多く、自分との違いを多々感じます。これから、先輩方に野球の技術はもちろん、人間性についても学んでいきたいと思います。まだまだ未熟ではありますが、これからも精進しますのでよろしくお願いします。
体育専門学群1年 高嶋凪
名古屋市立向陽高校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマ
で、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は岡田啓佑(数学1・松山東)です!
みなさんこんにちは
筑波大学硬式野球部一年の岡田啓佑です。このブログでは自分の大学野球に至る経緯と意気込みを書きたいと思います。
僕は生まれも育ちも愛媛県で、野球を始めたのは小学校3年生のときです。僕が野球を始めたきっかけは高校野球を初めて見に行った時の、選手から監督、スタンドの応援まで全員で必死に戦う姿に心を惹かれたからです。なので、当時の自分の中では野球がしたいというよりも高校野球がしたいの方があっていたかもしれません。そしてその六年後、僕は松山東高校の野球部に入ります。ここでもう一つのドラマとして、そこで監督をしていたのは僕が六年前に野球を始めるきっかけとなった試合のチームで監督をつとめていた、元筑波大学硬式野球部の友近拓也先生だったのです。
しかし、僕の高校野球はコロナの影響で3年とも応援はなく、大会自体が中止されることもあり、自分の思い描いたものとは全く違うものになりました。その上自分が3年生の時の夏大では2回戦の2日前にノックが目に当たって骨折し、最後の試合は出ることもできませんでした。
そんな不完全燃焼な高校野球でしたが、逆にそこから得られたのが今の筑波大学硬式野球部での日々であることは自分にとって間違いありません。最後の夏大までは絶対に大学も野球をするという感じではなく、それこそ甲子園に泊まり込みで高校野球を見たいという理由から志望校は筑波ではなく神戸大学や大阪大学でした。それでも友近先生は一年から三年まで一度もぶれることなく筑波を推し続けてくださり、高校の不完全燃焼も相まって自分も大学で最後、自分史上最大の勝負がしたいという思いがふつふつと沸いて、筑波大学硬式野球部に入部した次第です。
自分は高校までは公立の学校の部活で、時間やグラウンドの広さなど様々な制限のもとでの野球でしたが、今この筑波で、野球が大好きな先輩と、球場で夜までのびのび野球ができる日々が楽しくて仕方ありません。それと同時に自分が成長して、リーグに出ていくことも自分の努力次第であることを実感しています。素敵な先輩方や同期のみんなの力も借りながら日々、人間としても選手としても成長できるように4年間若々しく、日本一数学科らしくない数学科として頑張りたいと思いますので、これからもどうぞよろしくお願いします。
筑波大学理工学群数学類1年 岡田啓佑
松山東高校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマで、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は松田優樹(体育1・川口市立)です!
筑波大学野球部ブログをお読みの皆様こんにちは。体育専門学群1年の松田優樹です。
平素より弊部への熱い応援ありがとうございます。このブログでは主に私のことについて語らせて頂きます。言語能力が乏しくとても拙い文章になると思いますがお付き合いください。
まず、自己紹介から始めますと、出身地は「鋳物の町」と呼ばれる埼玉県川口市で生まれ育ちました。小・中・高ともに地元の学校に通いました。1つ1つ語ると長いので割愛しますが、高校に関しては、私立高校全落ちして滑り止めがない状態でなんとか受かった公立高校で過ごしました。高校では野球をやりつつ、勉強が大嫌いな私は赤点回避生活へ走りました。案の定共通テスト(1回目)は有り得んほど低い点数を取りましたが、筑波大学に出願して足切りくらわずに2次試験に進めました。
ここで人生の転機とも言える事件が起きました。それが2次試験初っ端の50mで起こったハムストリングの腱断裂です。足に力が入らなくなり歩くこともままならない状態でピッチングとバッティング、2日目の砲丸投げまでやりましたが、結果は不合格。親に土下座して浪人生活を送ります。
1年という長いようで短い浪人生活は入院から始まりました。全治半年と言われた私は「ここで変わらないと筑波大学も行けないし、自分に何も残らない」って感じました。1ヶ月ほど入院し、その後1ヶ月は自宅で勉強しつつリハビリに通う日々を送りました。5月から通いで予備校に通う事ができましたが、歩く以外の運動は全くできず、7月ぐらいでやっと捻ったり伸ばしたりということが出来ました。そこから少しずつ運動できるようになり9-10月頃やっと普通に野球ができるようになりました。勉強に関しては半年間はほとんど伸びませんでした。共通テストの1か月前ぐらいから少しづつ伸び、目標だった7割超えをすることが出来ました。実技で8割は取れると思ってたので7割超えれば受かると思ってた私ですが大事件が起きました。共通テスト自己採点57%、たしかリサーチ順位が400位台、500位台でした。しかし、逆算したとき2次試験で9割超えれば受かると思ったので筑波大学出願しました。結果は合格。共テ5割台で実技9割超で合格するという予備校の先生も驚く伝説を残しました。
って感じで筑波大学に入学したものの、正直なところ夢や野望は明確に語れません。強いて言えば、より高みへ登れるだけ登れるところまで野球をやりぬくことが目標です。その後は指導者になるという考えもありますが、とりあえずその時にやれることの中でやりたいって思ったことをやろうと思います。
ところで、筑波大学での生活は野球部寮での生活となりましたが、案外楽しいものです。先輩たちはとてもユーモアがあり面白い人ばかりです。ただ、やっぱり一人暮らしには憧れてしまいます。最近はよく友達の家に行って飯やゲームや勉強しています。
あと数ヶ月で1年経ちますが、不自由なく暮らせていることが嬉しいです。
最後に先輩たちへの一言で締め括らせていただきます。私はまだまだ未熟な面も多く、これからも多くの迷惑をかけます。その中でも必死に先輩達から奪えるのもは奪って自分の糧にして成長していきます。一球の重みを目の当たりにしたからこそ、必死にチームのために、勝つために努力していくのでこれからもよろしくお願いします。
ご覧頂き、誠にありがとうございました。
体育専門学群1年 松田優樹
埼玉県川口市立高等学校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマ
で、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は松永陽登(体育1・日大三島)です!
筑波大学硬式野球部のブログをお読みのみなさんこんにちは。体育専門学群1年の松永陽登です。日頃から弊部への熱い応援ありがとうございます。
今回は私自身のことについて書きたいと思います。勉強はあまり得意じゃないので拙い文章になると思いますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
私は、神奈川県の小田原市に生まれ、父の影響で小学3年生から野球を始めました。
その頃からプロ野球選手になること、甲子園に出ることを夢見てやっていましたが、毎日1時間ほどの素振りをさせられ、野球が嫌になることもありました。中学生になり、関東では強豪のクラブチームに入りました。ですが、中学生では思うような活躍ができず、不動のレギュラーという感じではなく、高校からもあまり声がかかることもありませんでした。そのため繋がりもあって自分のいとこも通っていた静岡県の日大三島高校に進学することとなりました。
自分の入学と同時に監督が変わることとなり、2018年と2019年の高校日本代表の監督も務めた報徳学園の永田裕治監督と出会うこととなります。私たちの代は、集められたような選手は1人もおらず、最初の頃の練習試合では負けっぱなしで怒られてばかりで、とても甲子園なんかにいけるようなチームではなかったです。ですが、永田先生は、「お前ら甲子園行きたいやろ?ほんなら死ぬ気でついてこい」と本気で自分達と向き合ってくれました。練習は本当に厳しく、やめていく部員も何人かいましたが、どの高校よりも練習している自信があり、試合をしていくうちに負ける気がしないくらいの自信を持っていました。
私は1年生の秋からピッチャーとしてエースナンバーをもらい4番を打たせてもらっていました。その時に永田先生から「エースなんやったら人の2倍3倍練習せなあかん」その言葉が自分にとても響き、自分の姿勢を変えてくれたと思います。そして2年秋に東海大会を優勝し明治神宮大会に出場。3年春の選抜に出場し、3年夏の選手権にも出場、夢であった甲子園に2度も立つことができました。
今まで頑張ってきたことが全て報われた気がして、悔いのない充実した高校野球生活を送れたと思っています。永田先生との出会いがなかったら今の自分はなく、筑波大学で野球ができることもなかったので、本当に感謝しています。
私の大学での目標は、チームとしては神宮大会で優勝すること。個人としては大学の日本代表に選ばれること。そしてもう一つの夢であるプロ野球選手になれるように4年間頑張っていきます。最後まで読んでいただきありがとうございました。
体育専門学群1年 松永陽登
日本大学三島高校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマ
で、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は佐野匠(体育1・上田)です!
みなさんこんにちは。
筑波大学野球部一年の佐野匠です。
私は昨年の共通テストの国語で 62/200 、3割を取ってしまったというほど文をまとめたり考えるのが得意ではないですが読んでいただけると嬉しいです。
ここからは今までの野球人生とこれからを話していきたいと思います。
自分は小学一年生の頃、なにか習い事をしようとサッカークラブの体験会に行きました。しかしそこでボールをうまく蹴れず泣いてお母さんのところに逃げていったことを覚えています。そこから気付かぬうちに兄にくっついて上田リーグという硬式野球チームで野球を始めました。
小学6年生で一時期中学受験のため野球から離れましたが、それから中学校まで上田リーグで仲間と汗を流しました。中学生の頃は野球より勉強という感じで学校から直接図書館に足を運び課題を終わらせて、テスト対策の勉強をするというほど勉強に励んでいました。
そのおかげで兄の背中を追って上田高校に入学します。
高校2年生の頃に監督が変わり、その監督から最初にかけられた言葉は「お前を大学でも通用する選手に育てる」でした。上田高校では大学野球まで続ける人はなかなかおらずその頃は大学でなんてまさか、、と思っていましたがだんだんともっと上のレベルで野球がしたいと思うようになり、そこから監督を信じて必死に練習をするようになりました。高校三年生になり自分達の代になると、同期が自分を合わせて5人しかおらず部員が十数人の少人数での活動でした。自分はキャプテンを務めいましたがなかなか言葉では人をまとめることができないタイプだったこともあり、誰よりも朝早くからグランドに行き誰よりも遅くまで室内練習場に残るといったような生活を一年間続けていました。
高校3年の夏が終わり筑波大学の練習会に参加し、そこでの雰囲気の良さや国公立でありながら上のレベルで戦っている選手を見てここしかないと思い受験勉強をスタートさせます。なかなか勉強は苦しいものでしたがなんとか合格を掴み取りました。
そこから大学野球がはじまり、この一年間なかなか思うような結果がでず上のチームに上がれない苦しい期間を過ごしました。高校時代では一人で自主練に取り組むことが多かったのですが、今では一緒に高め合える仲間ができました。
私はこれまで自分が思うままに伸び伸びと野球をやらせてもらってきましたが、日常生活や帰省を通じて家族の支えを感じました。大学野球が始まってから毎朝、両親や祖母がLINEを通じて「今日も野球ガンバレ!」といった内容を送ってくれています。最近では、応援してくれる家族のために、自分が活躍してる姿を見せたい、そんな思いも持って野球をしています。
自分はまだリーグ戦には出れていませんが、争いに勝ってリーグ戦に出場し、球場で、応援してくれている地元の友達や家族に活躍している姿を見せられるように精一杯頑張っていきたいと思います。
体育専門学群1年 佐野匠
上田高校