出身校は福岡県立福岡高校で、昨年度のチームを支えてくださった生島さんや轡水さんと同じ高校です。ポジションは主にショート、セカンドをしています。チーム最小なのではないかというほど体が小さいのですが、それでも周りに負けないように頑張っています。
私は、1年間の浪人を経てこの大学に入学しました。非常に大変でしたが、一年間で得た忍耐などの経験は大学で間違いなく生かされていると思います。
これまで支え、励ましてくださった家族、先生方、友達のみんな、本当にありがとうございました。
私がこの大学に入った理由は、野球を勉強できる環境が整っているからです。将来は野球関係の仕事に携わりたいと考えているため、筑波大学と硬式野球部は私にはもってこいの場所です。実際に入ると、先輩も同級生も野球に対する意識がとても高く、いつでも手本が周りにいるような環境でした。
先輩方へ、毎日先輩の姿から野球に対する姿勢や人間性についてもたくさん学ばせてもらっています。これから悩むことがたくさん増えると思うのでそのときは話を聞いていただけると嬉しいです。
同級生のみんな、迷惑をかけることも多々あったけどその度に成長させてくれてありがとう。これからもよろしくお願いします。
最後に少し、私の野球以外について述べさせていただきます。好きなものは、映画、甘いもの、服、実家の犬、そして地元、地元、地元です。とにかく地元好きです。これからの大学生活でつくばも愛せるといいです。他にも、外に出かけるのも、家に集まるのも好きなのでもっとみんなと思い出を作っていこうと思います。
今年は後輩も入り、先輩という立場にもなるため意識を昨年以上に高く持ち、濃い1年になるように精進していきます。
これからもよろしくお願いします。
体育専門学群1年 松本龍之辰
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマで、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は亀井湧希(体育1・石橋)です!
皆さんこんにちは。体育専門学群1年の亀井湧希です。栃木県の石橋高校出身です。
今回、1年生リレーブログの執筆依頼にあたって、筑波大学野球部に入部してから今までを振り返り、今後の目標について書いたので、最後まで読んでいただけると幸いです。
本題に入る前に軽く自己紹介をさせてください。僕は2004年、5月14日、栃木県は宇都宮市で生を享けました。小さいころの記憶はほとんどありませんが、両親からの話によると、ウインナーが好きすぎて自分の親指をウインナーと勘違いして思い切り噛んで泣くということを3日に一回はしていたそうです。その時の痛みは何となく覚えています。
そうした茫漠とした幼少期を経て、小学3年生の時に父の熱烈な勧めで、野球部に入部しました。当時は練習に行くのが嫌いでしたが5年生になって本格的にピッチャーを始めてからは一転して練習が楽しみになっていました。ピッチャーを始めて約7年になりますが、投げることが楽しくなくなったことは一度もないと思います。
軽く終わらせるはずだった自己紹介がかなり延びてしまいました。本題に入りましょう。筑波大学野球部に入部してから半年以上たちましたが、毎日が失敗と反省の連続です。
心技体どれをとっても、リーグ戦に出て勝利に貢献できるレベルには程遠く、大学野球のレベルの高さを痛感しています。特に体の部分では、線が細く、柔軟性もない中で、なかなか思うようなペースで伸びず苦しんでいます。練習でも、一つの課題をクリアしてもまた別の課題が出てきて、その途方の無さに心が折れそうになることがあります。ただ、そう思った時に毎回心に唱えるようにしている言葉があります。
それは、「たった一度の成功で得た自信はたった一度の失敗で不安に変わる」という言葉です。
これは高校の監督にいただいた言葉で、私たちは、日々の失敗から目を背け、目先の成功ばかりを追い求めてしまいがちですが、そこで一歩踏みとどまって失敗と向き合うことで、一喜一憂せず、一歩一歩自分の目指す理想像に近づけると思います。課題は山積している状態ではありますが、頼りになる同級生、先輩方の力を借りて、より強固な自信を得られるように精進していきたいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。
体育専門学群1年 亀井湧希
石橋高校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマ
で、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は高嶋凪(体育1・市立向陽)です!
ブログをお読みの皆さんこんにちは。体育専門学群1年高嶋凪です。
私は小学校5年生に野球を始め、中学校では軟式のクラブチームに所属していましたが、そのクラブチームが2年生になる時に人数不足でなくなり、中学校の部活ではバスケ部に入っていたため2年間野球をはなれ、バスケに取り組んでました。実は、バスケの方が始めたのが早く、野球より得意だと感じていました。それなのにまた高校から野球を始めたのは野球が下手でも好きだったからです。野球は、上手いから勝つ下手だから負けるという単純なスポーツではなく、ひとつのプレーや流れなどで実力差がひっくり返るところがとても面白いスポーツです。私はその実力差をひっくり返すためにはどうすれば良いのかが面白くてより高校生の時にハマり、大学でも野球を続けようと決心しました。
しかし、大学の野球のレベルの高さは自分の想像を大きく超えるもので、野球の実力はもちろん、意識の高さにも驚かされました。
大学に入って自分の野球をする理由が明確になりました。それは野球が楽しいからです。それは単におちゃらけたりする楽しさではなく、勝負の楽しさや、自分の能力向上のための試行錯誤の楽しさが自分の野球の動力源なのかなと思いました。
現在私は、とても戦力にはなれてはおらず、逆に足を引っ張っている状態だと思います。なのでいち早く戦力になり、チームに貢献できるようになりたいと思います。先輩の方々の野球のプレーや、取り組みは、見習うことが多いのですが、それ以上に、人として尊敬する部分が多く、自分との違いを多々感じます。これから、先輩方に野球の技術はもちろん、人間性についても学んでいきたいと思います。まだまだ未熟ではありますが、これからも精進しますのでよろしくお願いします。
体育専門学群1年 高嶋凪
名古屋市立向陽高校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマ
で、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は岡田啓佑(数学1・松山東)です!
みなさんこんにちは
筑波大学硬式野球部一年の岡田啓佑です。このブログでは自分の大学野球に至る経緯と意気込みを書きたいと思います。
僕は生まれも育ちも愛媛県で、野球を始めたのは小学校3年生のときです。僕が野球を始めたきっかけは高校野球を初めて見に行った時の、選手から監督、スタンドの応援まで全員で必死に戦う姿に心を惹かれたからです。なので、当時の自分の中では野球がしたいというよりも高校野球がしたいの方があっていたかもしれません。そしてその六年後、僕は松山東高校の野球部に入ります。ここでもう一つのドラマとして、そこで監督をしていたのは僕が六年前に野球を始めるきっかけとなった試合のチームで監督をつとめていた、元筑波大学硬式野球部の友近拓也先生だったのです。
しかし、僕の高校野球はコロナの影響で3年とも応援はなく、大会自体が中止されることもあり、自分の思い描いたものとは全く違うものになりました。その上自分が3年生の時の夏大では2回戦の2日前にノックが目に当たって骨折し、最後の試合は出ることもできませんでした。
そんな不完全燃焼な高校野球でしたが、逆にそこから得られたのが今の筑波大学硬式野球部での日々であることは自分にとって間違いありません。最後の夏大までは絶対に大学も野球をするという感じではなく、それこそ甲子園に泊まり込みで高校野球を見たいという理由から志望校は筑波ではなく神戸大学や大阪大学でした。それでも友近先生は一年から三年まで一度もぶれることなく筑波を推し続けてくださり、高校の不完全燃焼も相まって自分も大学で最後、自分史上最大の勝負がしたいという思いがふつふつと沸いて、筑波大学硬式野球部に入部した次第です。
自分は高校までは公立の学校の部活で、時間やグラウンドの広さなど様々な制限のもとでの野球でしたが、今この筑波で、野球が大好きな先輩と、球場で夜までのびのび野球ができる日々が楽しくて仕方ありません。それと同時に自分が成長して、リーグに出ていくことも自分の努力次第であることを実感しています。素敵な先輩方や同期のみんなの力も借りながら日々、人間としても選手としても成長できるように4年間若々しく、日本一数学科らしくない数学科として頑張りたいと思いますので、これからもどうぞよろしくお願いします。
筑波大学理工学群数学類1年 岡田啓佑
松山東高校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマで、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は松田優樹(体育1・川口市立)です!
筑波大学野球部ブログをお読みの皆様こんにちは。体育専門学群1年の松田優樹です。
平素より弊部への熱い応援ありがとうございます。このブログでは主に私のことについて語らせて頂きます。言語能力が乏しくとても拙い文章になると思いますがお付き合いください。
まず、自己紹介から始めますと、出身地は「鋳物の町」と呼ばれる埼玉県川口市で生まれ育ちました。小・中・高ともに地元の学校に通いました。1つ1つ語ると長いので割愛しますが、高校に関しては、私立高校全落ちして滑り止めがない状態でなんとか受かった公立高校で過ごしました。高校では野球をやりつつ、勉強が大嫌いな私は赤点回避生活へ走りました。案の定共通テスト(1回目)は有り得んほど低い点数を取りましたが、筑波大学に出願して足切りくらわずに2次試験に進めました。
ここで人生の転機とも言える事件が起きました。それが2次試験初っ端の50mで起こったハムストリングの腱断裂です。足に力が入らなくなり歩くこともままならない状態でピッチングとバッティング、2日目の砲丸投げまでやりましたが、結果は不合格。親に土下座して浪人生活を送ります。
1年という長いようで短い浪人生活は入院から始まりました。全治半年と言われた私は「ここで変わらないと筑波大学も行けないし、自分に何も残らない」って感じました。1ヶ月ほど入院し、その後1ヶ月は自宅で勉強しつつリハビリに通う日々を送りました。5月から通いで予備校に通う事ができましたが、歩く以外の運動は全くできず、7月ぐらいでやっと捻ったり伸ばしたりということが出来ました。そこから少しずつ運動できるようになり9-10月頃やっと普通に野球ができるようになりました。勉強に関しては半年間はほとんど伸びませんでした。共通テストの1か月前ぐらいから少しづつ伸び、目標だった7割超えをすることが出来ました。実技で8割は取れると思ってたので7割超えれば受かると思ってた私ですが大事件が起きました。共通テスト自己採点57%、たしかリサーチ順位が400位台、500位台でした。しかし、逆算したとき2次試験で9割超えれば受かると思ったので筑波大学出願しました。結果は合格。共テ5割台で実技9割超で合格するという予備校の先生も驚く伝説を残しました。
って感じで筑波大学に入学したものの、正直なところ夢や野望は明確に語れません。強いて言えば、より高みへ登れるだけ登れるところまで野球をやりぬくことが目標です。その後は指導者になるという考えもありますが、とりあえずその時にやれることの中でやりたいって思ったことをやろうと思います。
ところで、筑波大学での生活は野球部寮での生活となりましたが、案外楽しいものです。先輩たちはとてもユーモアがあり面白い人ばかりです。ただ、やっぱり一人暮らしには憧れてしまいます。最近はよく友達の家に行って飯やゲームや勉強しています。
あと数ヶ月で1年経ちますが、不自由なく暮らせていることが嬉しいです。
最後に先輩たちへの一言で締め括らせていただきます。私はまだまだ未熟な面も多く、これからも多くの迷惑をかけます。その中でも必死に先輩達から奪えるのもは奪って自分の糧にして成長していきます。一球の重みを目の当たりにしたからこそ、必死にチームのために、勝つために努力していくのでこれからもよろしくお願いします。
ご覧頂き、誠にありがとうございました。
体育専門学群1年 松田優樹
埼玉県川口市立高等学校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマ
で、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は中村啓太(体育1・佐野日大)です!
こんにちは。体育専門学群所属の中村啓太です。
冬休み前に執筆の依頼が来ており年内には終わらせようと思っていましたが、結局、箱根駅伝での青山学院の圧倒的な走りを見ながらゆっくりと書いております。拙い文章ですがぜひお読みください。
私の出身は富山県です。
ホタルイカや氷見寒ぶり、ます寿司などの食はもちろん、黒部ダムや20mの雪の壁で有名な雪の大谷などの自然も富山県の魅力です。(ちなみに僕はどちらも行ったことがありません。) 富山県出身の有名人には八村塁選手や細田守、お笑いコンビ「クマムシ」の「あったかいんだからぁ〜」のほうじゃない人などがいます。誇りです。
富山自慢はこれくらいにして、そろそろ本題に戻ろうと思います。
といってもパッと思い浮かばなかったので、私のこれまでの人生について少し話そうと思います。
私は小学校入学と同時に地元の少年野球チームに入りました。しかし入学以前から近くに住む祖父母とよく野球をしていました。
どんなに暑くても。日が沈んで暗くても。どんなに祖父母が畑仕事でヘトヘトになっていても、「じいちゃん野球しよー」と祖父母の家に行っていたそうです。
なんとか小学校を卒業し、中学校では硬式のクラブチームに入りました。
学校生活では「お医者さん」という夢を叶えるべく、富山高校(富山御三家の一つ)に合格するために、毎朝6時に起きて勉強していました。
そして高校は栃木県の佐野日本大学高等学校へ入学しました。
「え??なんで栃木??」と思った方も多いでしょう。当時の周囲の反応もそんな感じでした。
高校3年間は一冊の本が書けるくらい充実していました。
同じ志を持った仲間と、「甲子園」という大きな目標に向かって切磋琢磨した日々は一生の財産になると確信しています。
三年間の集大成を発揮しようと臨んだ最後の夏の大会は、体調不良により試合に出ることができず、あっさりと高校野球の幕が下りました。めちゃくちゃ悔しかったです。
そこから受験勉強が本格的に始まりました。この受験期に関して話し出すとどれだけ時間があっても終わらないので、暇すぎて時間が有り余っているという人は自分のところまで来てください。
そして、manabaでの課題の提出くらいギリギリで筑波大学体育専門学群に合格し、今に至ります。
大学生活は高校と比べて自由度が高く、個人に委ねられている部分が多く、高校とのギャップになかなか慣れることができませんでした。しかし個性豊かすぎる野球部の同級生や、頼りになりすぎる先輩方のおかげでなんとか大学生活に慣れ、楽しく過ごすことができています。
特に青桐寮4階の住人の皆さん。いつも楽しく生活できているのは皆さんのおかげです。いつでも鍵開けて部屋で待っているので遊びに来てください。
今回のブログ執筆にあたり、今までの人生を振り返ってみて気がついたことがあります。
それは周りの人に恵まれているということです。
こんなにも周りの人に恵まれている人はなかなかいない気がします。感謝です。
これからも応援してくれる周りの人たちに感謝をしながら、僕の活躍で喜んでもらえるように頑張ろうと思います。周りの人にはいつも助けてもらってばかりなので、助けが必要になった時は自分にも頼ってください。車の免許はありませんが出来ることはします。
予め言っておきますが、周りの方々にはまだまだご迷惑おかけすると思います。
その際はきつくお叱りいただけると幸いです。
初めてのブログで思わず書きすぎてしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
体育専門学群1年 中村啓太
佐野日本大学高等学校
今回のブログ企画では、野球部の未来を担う1年生たちに、「先輩、私の話聞いてもらってもいいですか」というテーマ
で、意気込みや目標、野望を語ってもらいました!
本日の担当は松永陽登(体育1・日大三島)です!
筑波大学硬式野球部のブログをお読みのみなさんこんにちは。体育専門学群1年の松永陽登です。日頃から弊部への熱い応援ありがとうございます。
今回は私自身のことについて書きたいと思います。勉強はあまり得意じゃないので拙い文章になると思いますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
私は、神奈川県の小田原市に生まれ、父の影響で小学3年生から野球を始めました。
その頃からプロ野球選手になること、甲子園に出ることを夢見てやっていましたが、毎日1時間ほどの素振りをさせられ、野球が嫌になることもありました。中学生になり、関東では強豪のクラブチームに入りました。ですが、中学生では思うような活躍ができず、不動のレギュラーという感じではなく、高校からもあまり声がかかることもありませんでした。そのため繋がりもあって自分のいとこも通っていた静岡県の日大三島高校に進学することとなりました。
自分の入学と同時に監督が変わることとなり、2018年と2019年の高校日本代表の監督も務めた報徳学園の永田裕治監督と出会うこととなります。私たちの代は、集められたような選手は1人もおらず、最初の頃の練習試合では負けっぱなしで怒られてばかりで、とても甲子園なんかにいけるようなチームではなかったです。ですが、永田先生は、「お前ら甲子園行きたいやろ?ほんなら死ぬ気でついてこい」と本気で自分達と向き合ってくれました。練習は本当に厳しく、やめていく部員も何人かいましたが、どの高校よりも練習している自信があり、試合をしていくうちに負ける気がしないくらいの自信を持っていました。
私は1年生の秋からピッチャーとしてエースナンバーをもらい4番を打たせてもらっていました。その時に永田先生から「エースなんやったら人の2倍3倍練習せなあかん」その言葉が自分にとても響き、自分の姿勢を変えてくれたと思います。そして2年秋に東海大会を優勝し明治神宮大会に出場。3年春の選抜に出場し、3年夏の選手権にも出場、夢であった甲子園に2度も立つことができました。
今まで頑張ってきたことが全て報われた気がして、悔いのない充実した高校野球生活を送れたと思っています。永田先生との出会いがなかったら今の自分はなく、筑波大学で野球ができることもなかったので、本当に感謝しています。
私の大学での目標は、チームとしては神宮大会で優勝すること。個人としては大学の日本代表に選ばれること。そしてもう一つの夢であるプロ野球選手になれるように4年間頑張っていきます。最後まで読んでいただきありがとうございました。
体育専門学群1年 松永陽登
日本大学三島高校