4年の今野大気です。
気づけばもう、自分がラストブログを書く番がやってきました。
「こ」の中ではかなり弱い方の今野という名前ですが、今回は何番目かとしてブログが回ってきてしまいました。
幼少期からしみじみと振り返りたいと思います。
小学校3年生から野球を始めました。ですが、チームの練習以外で野球をした記憶が一切ありません。
友達の家に集合して北風公園に行き、野球場でサッカー、道路でバスケ、児童会館周りの住宅地で鬼ごっこ。門限になり家に帰って父に卓球を教わる毎日を過ごしていた記憶があります。
鬼ごっこはよろしくないですね。
野球が好きというよりは友達といる手段の1つとして野球をしていたのかもしれません。
それだけ良いチームメイト、友達に恵まれました。
中学は投手で甲子園出場、プロ野球選手になるという夢を叶えるために肩肘の負担の少ない軟式野球を選びました。
しかし、中3の夏に右肘の靭帯を損傷。
完治した中3の冬、高校野球に向けファイターズアカデミーという野球教室に通いました。
その際にブルペンでの投球練習中、
ブッチン
というとんでもなくでかい音がブルペンに響きわたり、私の右肘の全ての靭帯が完全に断裂。
さぞブルペンもびっくりしたことでしょう。
高1でトミージョン手術。
それ以降思うように投げられなくなり、野手になりました。
何とか高3でレギュラーになることができ、春の北海道大会の準決勝では奇跡のホームランを打つことも出来ました。
夏も勝ち上がり、甲子園をかけた決勝戦2点ビハインドの9回裏にチームの皆が2点を追いつき、満塁で迎えたサヨナラのチャンスをセカンドゴロで甲子園を決められず。
同点の延長14回表の2アウト2塁でセカンドゴロをエラーし、1点を献上。チームを負けさせ、甲子園を逃す。
その際はグラウンドに入れる穴はないかと全力で探しまわりました。
ありませんでした。
このエラーは今も毎日思い出し、負い目を感じています。
ですが、チームメイトはその後私を責めることなく練習後の部室のように接してくれました。
高校でもよいチームメイト、友達に恵まれました。
高校の監督である有倉先生の
自分のためにやる野球は中学まで、高校からは人のために野球をやれ
という言葉のもと、高校では人のため、チームのために野球をしました。
その結果、野球において一番好きなプレーはカバーリングになりました。
大学では家族に高校では見せられなかったいい姿を見せるため野球を続けました。
しかし、思うような結果が出ず、今度は肩を痛めセカンド正面のゴロをセーフにしてしまい、今野前ヒットといじられる始末。
よく考えると中学以降、全力で球を投げれた記憶がありません。
2年生のトライアウト前少しAチームにいさせてもらいましたが、トライアウトでは帰省で体が鈍っており、ミットにボールが入ってからスイングをかまし、三振。Cチーム。
あいやー
マネージャーとしても昨夏のBキャンプで新型コロナウイルスのクラスター感染を発生させてしまう。
あいやー
これ以外にも大学ではたくさんの失敗をしてきました。
ですが、大学生活もチームメイトや友達のおかげで楽しいです。
この学年、チームでよかったなと思います。
大学でもチームメイト、友達に恵まれました。
このように私はこれまで自分に関わってくれた指導者、チームメイト、友達、全ての人に恵まれてきました。
本当にありがとうございました。
私がお金が無くても何時でも誘いを断らないのはこれほど恵まれている人達と明日以降必ず会えるとは限らないからです。
私は部活が終わって無くなる関係はなんの意味もないと思っています。
部活が終わってもかけがえのない存在であり続けますが、その前にこの学年でリーグ優勝、日本一になって、美味しいウーロンハイを飲みましょう。
最後に家族へ
何不自由なく野球をやらせてくれたのにも関わらず、活躍した姿を見せられず申し訳ありません。ですが、野球を通して沢山のことを学ばせてもらいました。本当にありがとう。
拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。
体育専門学群4年今野大気
北海道立札幌国際情報高校普通科1組
入ってすぐコロナがあり、野球をできる環境はほとんどありませんでしたが、たくさんの規制の中、秋の天王台は無事実施され、そこで先輩とバッテリーを組むことができ、とてもうれしかったことを覚えています。
坂田光優 理工学群応用理工学類 足立学園高等学校
こんにちは。筑波大学4年小田切大也です。
はじめに、監督をはじめとする指導者の方々、スタッフ・関係者の方々、今までご指導いただきありがとうございました。
毎年何気なく読んでいたラストブログですが、とうとう自分が書く番になりました。なんだか不思議な感覚です。
またそれと同時にラストブログを書くということは小学校3年生から始めた学生野球が終わりに向かっているということでもあり、寂しさを感じます。
普段から自分のことをあまり口にしませんがこのような機会なので自分なりに書こうと思います。
私は小学校3年生から野球を始めました。しかし、なぜ野球をやりたいと思ったのか、なぜ始めたのか全く記憶がありません。
ただ、野球が好きで楽しくて友達と遊ぶにしても野球、テレビを見る際はプロ野球と何をするにしても野球が身近にあったような気がします。
リトルリーグに入団したのですがまあまあ強く本気で全国大会を目指していました。なんなら行けるものだと思っていました。しかし、東北大会で負けてしまい号泣したのを覚えています。
中学校ではボーイズに入団しました。ボーイズの練習がない日は中学校での部活を終え下校した後すぐに先輩や同級生、後輩と室内練習場に集まり、毎日練習していました。
今では考えられません。
リトル、ボーイズの指導者との出会いがなければ野球をここまで好きになり、大学まで野球を続けることもなかったと思います。
本当にありがとうございました。
高校は不完全燃焼で終わってしまいました。
毎日の練習は2時間程度で気付いたらすぐ終わっていました。秋、春と聖光学院に負け、夏も全く何もできずに負けてしまいました。
コールドで負けたのですがあまりにも歯が立たず絶望し、6回くらいに守備に付きながら「明日から受験勉強かー」と思ってしまいました。
終わってます。
同級生、後輩のみんなごめんなさい。
浪人もしていますが文字数の関係で割愛します。
ただ小中高浪人と本当に仲間に恵まれ今の自分がいます。
そんなこんなで筑波大学に入学します。
大学でも多くの人に出会いました。
この場を借りて感謝を伝えたい人がいます。
まず、Bヘッドであった傳谷さんと榊原さんです。
自分がノックやハーフをお願いした際は、日が暮れるまで練習に付き合っていただきました。
私がリーグ戦に出場できたのは2人のコーチのおかげです。本当にありがとうございました。
次に西浦さんと生島さんです。
普段の自主練やリーグ戦の前泊の際にご飯に誘っていただいたりと大変お世話になりました。
また、アップの時間の雑談や自主練中、野球の技術について話したりするのがとても楽しかったです。ありがとうございました。
話は変わりますが、私は筑波大学というチームが好きです。
リーグ戦になるとグランドの選手とスタンドが一体となって勝ちに向かう姿はどこのチームにも負けておらず誇りです。
そのような部分から学んだことがあります。
この一体感はグランドでプレーする選手とスタンドで応援してくれる選手、スタッフの信頼関係によって生まれるものであるということです。
自分が選手であるため、選手目線で書きますが、選手は応援してくれるスタンドのみんなに「こいつならやってくれる」といったように信頼してもらい、「こいつのために応援しよう」と思われる選手になる必要があると思います。
そのために普段の私生活や練習態度、言動に責任を持たなければなりません。これらのことをチーム作りを通して、また、最近より一層思うようになりました。
後輩には筑波の良さ1つでもあると思うので受け継いでもらいたいです。
こんな一丁前なことを言っていますが自分もまだまだだと思うので信頼される選手、応援される選手を目指してラストシーズンまで走り抜けたいと思います。
また、野球への取り組み方にも影響を与えました。
これまでは、結果を出すことに執着し、自分のことばかり考えていました。
しかし、筑波大学でプレーしていく中で学生スタッフに感謝の気持ちを持ちながらプレーするようになりました。
普段のノックやバッティングピッチャーをしてくれるおかげで自分たち選手は練習することができているし、キャンプや試合ができるのはマネージャーがさまざま準備をしてくれるから、リーグ戦で打つことができるのはSSDの対策のおかげです。
いつも本当にありがとう。
そして、ラストシーズンの目標はリーグ優勝です。これまであと1歩のところで優勝できずにチームとしても、個人としても悔しい思いをしてきました。
この悔しさと感謝の気持ちを忘れずにリーグ優勝という目標を実現できるように頑張ります。
最後になりますが両親に感謝の言葉を述べたいと思います。
これまでなんの不自由もなく野球を続けさせてくれてありがとう。最後のシーズン悔いなく良い形で終われるように頑張ります。
他にも色々書きたいことはありますが文字数の関係で割愛します。気になることがあれば聞きに来てください。
纏まりのない文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。
体育専門学群4年小田切大也
福島県立会津高等学校