筑波大学硬式野球部のブログ

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ラストシーズンに懸ける想い⑪(体育4・中村真也/専大松戸、体育4・中村大聖/札幌日大)

2024年08月25日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第11回は中村真也(体育4・専大松戸)と中村大聖(体育4・札幌日大)です。
 
 
是非ご覧ください!


平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援のほどありがとうございます。

4年の中村真也です。






普段、逆張りをする事が多いですが、今回は本心を綴っていきたいと思いますので、最後までお付き合いいただけると幸いです。


18年間の野球人生もついに節目を迎えるということで、幼稚園から振り返りたいところですが、字数がすごいことになってしまうので今回は大学入学からお話したいと思います。


人生で3度目の受験である大学進学の際は、ずっと甲子園出場が目標だったので、野球を辞めようと考えていました。

薬学部進学なども考えましたが、筑波大学に合格する事ができたので、今まで通り文武両道を貫くことが自分にとってプラスになるのかなーという感じで、正直なんとなく続けました。

なんとなく始めた大学野球でしたが、振り返ると自分にとってあまりにもしんどいものでした。

高校までは大した挫折もなく、割とうまいこと進んでしまっていたことで、大学で壁に当たるたびに部をやめたいと考えていました。

特に、1年春から何だかんだ7期ともリーグに絡んでいますが、1度もまともな結果を出せておらず、この結果に何度打ちひしがれたか分かりません。

打てない事でチームに貢献できていない無力さを感じ、応援してくれる人達には引け目を感じていました。

また、指導者の方達に特に申し訳なさを抱いており、プレーで返す事ができていない事が悔しいです。

こんな挫折ばかりの大学野球でしたが、ついにラストシーズンを迎え、ここからという時に私の体は動かず、もうプレーで返す事は叶わなくなってしまいました。

これまた情けないです。


そこで、プレイヤーではない立場で迎えたラストシーズンにどのように挑み、どんな貢献が出来るのかをよく考えてみました。

出た結論は今年のスローガン「繋ぐ・絆ぐ・つなぐ」を体現する事です。


一周回ってというやつですね(笑)


何をつなぐかと言うと、野球を通して学んだ上下関係をつないでいきたいと思っています。

上下関係と言っても、先輩を敬えとかそういうことを言いたいわけではありません。


先輩から貰ったものを後輩に繋いでいく、これが本当に大切だと思っています。


野球を通して自分は、とんでもない数の先輩達に良くしてもらっています。

野球人としての先輩である、今まで指導してくださった指導者の方々、小中高で良くしてくださった先輩方、お世話してくれるキング今井、お友達しみずひろうみさん、ここにあげればキリがないほどに多くの先輩方から受けた、ありがたいご指導と恩を後輩たちにつないで行きます。

後輩たちにつないでいくことで少しでも恩返しになれば良いなと思います。(もちろん直接恩返しにも行きます)









さて、ここまでラストシーズンに懸ける想いを綴ってきましたが、暗い話や説教が偉そうに書いてあって嫌なので、最後にこの場を借りて同期、後輩に感謝を伝えたいと思います。


まずは同期にむけて

なんだかんだ楽しく、そして成長できる環境だったと思ってます。

特に涼世はこんなに頑張ってるので、褒めてあげます。

胴上げは腰が痛いので、ビールを多めにかけてあげたいと思います。

あとは航大、自分の成長は航大から来てるものが多い気がします。ありがとう。

あとは名前は出しませんが、O.S君、いろいろあざした(笑)


次に後輩達、最後に4年一同必死にやるので、ついてきてください。

なんとか後輩達につなぎます。

あとはよねと国本、これからも対戦よろしくです。


最後に両親へ。

かなり甘やかされてきた気もしますが、なかなかに優秀に育ったのではないでしょうか?(笑)

ここまで成長できたのも、何不自由なくサポートしてくれた両親のおかげだと感じています。ありがとう。

優良投資先としてでかいリターンができるように頑張るのでご期待ください。

毎年うまい酒が飲めるように家族一同長生きしましょう。



文章上手く纏まりませんでしたが、言いたいことを一通り言いました。


すっきりしたので、あとはビールかけを目がけてみんなで突っ走りましょう!






中村真也 体育専門学群 専修大学松戸高校





平素より筑波大学硬式野球部への多大なるご支援、ご声援誠にありがとうございます。

4年元外野手の中村大聖です。






真也君と同じ苗字ということで僕は「大聖」登録になったので、先輩からも下の名前で呼ばれ、なんだか心地よさを感じていたらあっという間に4年生になってしまいました。

幼い頃から人前に立つのが嫌いで、修学旅行の班長ですら無理やり友達に押し付けていた自分ですが、今や部員約130名の主務を一丁前に務めています。

立場柄、過大評価されることも多いですが、研究学園と新大久保が大好きなただの平凡大学生です。

母からは「あんたが主務なんてチームが崩壊する」とまで言われてしまいました。


そんな自分ですが、今の部員の大半は「金払え」ばかり言う奴としか思っていないと思うので、これまでの野球人生からお話させてもらえたらと思います。

お手すきの際にご一読いただけますと幸いです。


生まれは100万$の夜景で有名な北海道函館市、3歳から英会話教室に通い、小学校までに陸上、水泳、サッカー、公文、塾、アトリエと英才教育を施されて育ちました。

野球は小学校5年生から市内最弱と言っても過言ではないチームで始めました。

小学校2年間で、勝利数はたったの1です(しかもサヨナラパスボール)。


中学校では、軟式野球部に入部し、本格的に野球一本に絞りました。

今では間違いなく体罰で訴えられるであろう当時の監督に徹底的に鍛えられ、また北海や明徳義塾に進学したレベルの高い同期とプレーしたことで、私も一丁前に「甲子園に行きたいな、強い所で野球したいな」と思うようになりました。


そして、なんやかんやあってシルバコレクターと揶揄されていた例の高校へ進学することになります。


ここでの3年間を話すと試合後のミーティング以上の長さになってしまうので、辞めておきます。


そこから一年間の浪人の末、筑波大学硬式野球部の門を叩きました。

そして、始まった新人練、帽子の裏に「漢になる」と書いてるやつなど今までの野球人生で出会ってこなかったタイプの人ばかりで、浪人生活を共にした福島出身のO君とよく小馬鹿にしていました。

性格悪いですね。みんなごめん。


そんなこんなでスタートした大学野球ですが、正直楽しいと思ったことはほとんどなかったです。

当時野球への情熱は高校野球で完全に燃え尽きていたし、野球を続けようと思った原動力は高校3年でセンター試験に失敗した日に「野球だけは辞めないでくれ」と言われた父の言葉だけでした。

そんな気持ちで野球をしていたので、わざわざ硬式野球部で野球をやる意義を見出せず、2年の夏には本気で部を去ろうと決心し、またそれを周囲に負の形で伝播させてしまいました。

反省しています。

そんな奴がなんで4年間も部を続けるに至ったのか、それは当時の先輩方がどうしようもない自分にも本気で向き合ってくださったからです。

どうしたら選手として結果を出せるのか、選手ではなくても硬式野球部を続けた先でなにが得られるのか、を親身になって伝えてくださりました。

傳谷さん、洲嵜さん、村井さん本当にありがとうございます。

今の自分があるのは先輩方のおかげです。

そして、榊原さん、たくさん反抗してしまいすみませんでした。

色々ありましたが今となっては415事件も良い思い出(?)です(松尾は睡眠障害になったらしい)。

そこからとりあえずスタッフミーティングまでは本気でやり切ろうと決意し、野球に打ち込みました。

あの数カ月は自分のためというよりも先輩方に少しでもプレーで恩返しがしたいという思いが強かったかもしれません。

関甲信で傳谷さんを胴上げできなかった時は、とてつもなく悔しかったです。


そうして野球と向き合ううちに「退部」という考えは自分の中で自然と消えていきました。

その後スタッフミーティングを迎え、マネージャーへ転身。

同じく今野と健大がマネージャーになりましたが、皆さんもご存じの通りそれまでの先輩マネージャーとはキャラクターが真反対で何度心配の声が上がったかわかりません。

「来年が心配だ」と3年生の頃はBOSSからもよく怒られ、翌年のスタッフミーティングでは「適切な人員配置を」と首脳陣から釘を刺されたほどです。


そんなこんなで、時折怒られながらもここまで大きな問題を起こすことなくやってこれたのは、どんな仕事もスマートにこなす健大と最低限の労力と最大限のスピードで定時には仕事を終わらせるこんちゃんの支えがあってこそでした。

ありがとう。

(ちなみに固まったコーヒーシロップを来客に出したのは僕らではありません。轡水さんです)

そして後輩マネージャー達、今の社会なら間違いなくパワハラで問題になるくらいに接してますが、毎日本当に助かってます。


たまにはまともなことをいうと、外部では良くも悪くもマネージャーの振る舞いでチームの評価がくだされます。

身だしなみ、表情、受け答え一つひとつに自信を持ち、滞りなく業務を遂行するためには、心に余裕を持って常に自分を客観視することが大切です。

私もまだまだ不束者ですが、この2年間で身を持って学びました。

この経験を中島と大沼には引退するその日まで徹底的に教育する所存です。


覚悟を持ってついてくるように。






「書くことねー」とか言いながら結構な分量になってしまいました。意外と内にアツいものを持つタイプです。「ラストシーズンに懸ける想い」しばしお付き合いください。


軽く「優勝」と口にするのは好きではないですが、大学生という貴重な時間をこれだけ野球に費やしてきたからには負けたくないです。

人生で全国の舞台を経験したことがないので、一度はその景色を観てみたいと思ってます。

私ができるのはバスを手配して、試合会場へ連れてくまでです。

その先は選手にかかっています。


選手全員に期待してるけど、最後は4年で勝とう。

これまで積み重ねてきたものを糧にグラウンド、ベンチ、スタンドの4年が一体となってつながっていこう。


ベンチで最高の景色を見せてください。


そして、隼瀬、最後は意地を見せてくれ。

p.s.永戸キャプテンの坊主にも期待します。


最後に両親へ

スタッフになってから選手を辞めたことを連絡した時の落胆ぶりは今でも忘れられませんが、二人のおかげで貴重な経験をすることができました。

浪人させてくれて、そしてここまで野球を続けさせてくれてありがとう。

筑波に入ってよかったし、やっぱ野球大好きです。






体育専門学群4年 中村大聖
札幌日本大学高等学校
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ラストシーズンに懸ける想い⑩(体育4・長岡いぶき/郡山、応理4・中西駿太/県立小松)

2024年08月24日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第10回は長岡いぶき(体育4・郡山)と中西駿太(応理4・県立小松)です。
 
 
是非ご覧ください!



日頃より弊部へのご支援、ありがとうございます。

4年の長岡いぶきです。






いよいよ僕たち永戸世代も残すはラストシーズンになりました。

イリエになりきることから始まった僕の大学野球も残りわずかというわけですが、せっかくこのような機会をいただいたので、この大学での生活を振り返りながら、お世話になった方々への感謝と、ラストシーズンへの思いを綴りたいと思います。


部内企画の仮装に1万円を費やしたり、ワンタップ忘れで一発ギャグを送り合ったり、沢山の思い出がありましたが、一つひとつ振り返るときりがないのでやめておきます。

ここでは自分が野球について、そして同期について深く考えるようになった2年生での出来事を中心に述べさせていただきます。


きっかけは例の415事件です。

2年生以下は知らない人も多いかもしれませんが、これは2年前の6月練での出来事で、名将榊原コーチによる早朝4時15分からの猛練習のことを指します。

メニューは振りこみをメインとした打撃サーキットで、時間を取れるときは遠投、「ケンカボール」と呼ばれる早投げ、ボール回しをしました。

「この時間からやる意味あるんか」と半ギレ状態のなか各自アップでマットに寝そべり、薄暗い中バットを振っていたのを覚えています。

松尾君が全員を集めてミーティングをしてくれたおかげで期間は1週間ほどで済み、6時からの朝練に変わりましたが、この6月練から僕は完全に野球部をやめるメンタルになってしまいました。

1年生から全く上達もせずCチーム所属で、何が目的かも分からずに早朝からバットを振る自分がみじめになり、逃げたくなったのだと思います。

弱い人間です。

空きコマの自主練中、ハウスで打ちながら、「どうせやめるしこんくらいでいいわ。」とよく口にし、Cチームの雰囲気を悪くしていました。

本当に害悪でした。

この時期に野球部をやめていった同期には自分の責任もあると感じています。

ごめんなさい。

そんな勝手な行動ばかりしていた僕ですが、野球部に残って、スタッフとしてチームを支えたいと決意できたのは、当時の4年生の方々のおかげです。

同郷奈良県民の村井さんにはよく相談に乗っていただきました。ありがとうございました。

野球部に残り、皆と大学野球をやりきる選択が出来たことで、また良い思い出ができました。本当に良かったです。


野手スタッフの方々にも本当に感謝しています。

春季リーグを終えて、ラストシーズンに向かおうという時に、本当にどうしようもない後輩だったと思います。

ご迷惑おかけしました。

先輩方のおかげで、プレーしたい気持ちを抑え、同期や後輩のために尽力できる学生スタッフの存在の大きさに気づくことができ、自分もそうなりたいと決心できました。

ありがとうございました。




SSDになってからも、井上D師匠をはじめ、沢山の先輩方にお世話になりました。

井上さん、生意気な口もたくさん聞きましたが、本当にお世話になりました。

井上さんのおかげで、4年生になってから、地道なことにも少しずつ向き合えるようになりました。ありがとうございました。


ここからは、このチーム、ラストシーズンへの思いを書かせていただきます。


まず同期へ

スタッフミーティングの頃には浮き彫りになっていた学年間での溝も、今の涼世と駿平を見れば分かるように完全に解消されました。

僕は本当に嬉しいです。

あの期間があったから僕はこのメンバーで優勝したい、なんでもやりたいと強く思えるようになりました。

人差し指でキーボードを打っていた自分がSSDになろうと踏み切れたのは、あの真っ暗なネット裏で、泣きながら話した日を無駄にしたくないと思えたからです。


僕はこの学年が大好きです。


みんなのおかげで本当に楽しく過ごさせてもらいました。

たくさん怒られ、たくさん小言を言われてきましたが、最後はこの学年のすべてを見せつけてやりましょう。


やめていった同期たちへ。

僕はみんなにも会えて本当に良かったです。

日立第一高校とのOP戦は今でも僕の宝物です。

秋リーグ、できれば現地に来てほしいですが、画面上でも良いので、僕たちの集大成を見届けてください。


またみんなでご飯行こう。

エニタイムで追い込む小平にも届け!


そして、SSDのみんな。

プログラミングが苦手な自分をカバーしてくれ、分からないところは一から教えてくれて、本当にありがとう。

皆のおかげで少しは戦力になれるくらいに成長することができました。

特に颯さんには本当に感謝しています。

大学院での活動が忙しい中で、僕たちを超えるほどの熱い気持ちを持って一緒に練習をサポートしてくださって、本当にありがとうございます。

妥協しそうになっても、颯さんのおかげで頑張ろうと思えました。

颯さんにもこのブログを書いてほしいですが、それは叶わなさそうなので僕がここに颯さんの事を記しておきます。






次に後輩たちへ

僕は到底見本と言えるような下級生ではなかったので、自分が上級生になってからは、不安しかなく、自分が何か発信しても耳を傾けてくれるかどうか不安でした。

でも、皆自分の言葉を聞いてくれ、意見を求めてくれていつも本当にありがたいと思っています。

対策においても、米田を中心に打撃についてアドバイスを求めてくれて、本当に嬉しいです。

秋リーグも、窮屈に感じるような事を言ってしまうかもしれませんが、迷うときは自分の感覚を信じてください。

君たちほどに根を詰めて練習している選手はいません。

本当にすごい選手ばかりです。

ミスした時は4年生がカバーします。安心してください。


最後に両親へ

文にして感謝を綴るのは二分の一成人式以来でしょうか。

いつもいつもスネをかじってばかりで申し訳ありません。

野球に無縁だったはずの僕が、年少のころにチラシ一枚でなぜかやりたいと言い出したのを止めずにここまで続けさせてくれてありがとう。

たぶんこの頃の僕は、ちょっとした好奇心で言ったんだと思います。

ですが、そんな僕の気持ちを優先させてくれた二人には感謝しかありません。

おかげで沢山の友達、先輩、後輩、指導者に恵まれ、野球を通じてしか味わうことのなかった幸せを実感出来ています。

僕も二人のように、子どものやりたい事を暖かく応援できる人間になります。

一人前ではないけれど、ここからは自分が返していくので、安心して歳を取ってください。

帰省したらいつも会ってくれる地元の皆や、高校の同期にも一人ずつお礼を言いたいところですが、なかなかに長くなっているのでまとめてお礼させていただきます。

いつもありがとう。帰ったらまた遊んでね。


ラストシーズン、みんなが一打、一投に少しでも自信を持てるよう、僕は全てを尽くします。


最後は神宮で笑って終わろう!






体育専門学群 4年 長岡いぶき
奈良県立郡山高等学校





平素より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援いただき誠にありがとうございます。

筑波大学硬式野球部4年の中西駿太です。






拙い文章ではありますが、最後までご愛読いただけると幸いです。


あと数か月で野球が終わると思うと、感慨深いものがあります。

このような機会ですので幼少期から振り返っていこうと思います。


保育園のころから兄の影響で常にバットとボールを持ち、小学校では当然のように地域の少年野球チームに入りました。

5チームでトーナメントをするという素晴らしい環境でしたが、一度も優勝することなく終えました。

当時から負けず嫌いで大会で負けて泣くのはもちろん、兄との遊びの野球でも大泣きしていたそうです。


中学ではシニアに入部しました。

ここではとても心強いチームメートに恵まれました。

チャリで1時間かけてみんなで練習に行っていました。シニアのローカル大会では何回か優勝も経験できましたが、大事な大会ではことごとくやられました。


高校は地元の進学校の小松高校に進学しました。

1時間に1本しかない電車ぎりぎりまで練習して帰るという生活をしていたと思うとよくやっていたなと思えてきます。

頭はベスト4とよく言われていましたが、最後の夏は2回戦負けという悔しい結果でした。


小中高と、指導者や同期に恵まれ、野球なしの生活が考えられないほどの野球馬鹿になりました。

とても感謝しています。
 

野球が強い、じゃあ筑波
 
という、あたかも体専のような感覚で共テE判定にもかかわらず受験を決意し、紙一重で入学できました。

大学の4年間を振り返ってみても大半が野球の生活だったため同じ学類の坂田君にはとても救われました。

岡田や惇も自分と同じ節があると思うので文武どちらも期待しておきます。


この4年間色々な経験をしました。

ハウスで毎日のように打ったり、真っ暗な中練習に向かったり。

下のチームにいる時間が長く、苦しいことが多かったです。

しかし、首脳陣、偉大な先輩方、同期、後輩とたくさんの人に支えられ、乗り越え成長することができました。


ひとつ今年の春キャンプの風呂での話をしたいと思います。


「僕はまだ開幕戦のスタメンをあきらめてないです」


西川と露天風呂で話してた時どういう流れかは忘れてしまいましたが、こういわれました。

その時はあまりなにも感じなかったのですが、正捕手となりリーグ戦で活躍する姿を見るたびこの言葉を思い出しました。

可能性を信じて己をぶらさずやることの大事さを実感させられました。

彼は本当に凄いですね。

特に下級生、BCチームにいる選手には今やっていることが意味を成すと信じて頑張ってほしいと思います。

これまで、下のチームからリーグでやれることを見せたい一心でやってきました。

それが今BCにいる選手の目標になると思っていました。

正直厳しい現状があります。

しかし、これまでの自分、またこれからの自分から何かいい影響を与えられていたら幸いです。

この4年間色々なことを経験してきましたが、リーグ優勝だけは経験できていません。

この代で2部に落ちるなど言われてきましたが、最後は優勝して終わりたいです。

ブルペンから見ることになるかもしれません。

どれだけでも受けます。

隼瀬がもう一度優勝投手になるのを見たいです。

ラストシーズン全員で戦いましょう。
 





平川さん、廣瀬さん、岩室さん 先輩方のおかげでキャッチャーとしてやってこれました。ありがとうございました。

洲嵜さん、榊原さん 苦しいときに声をかけていただき、何気ない言葉が支えとなっていました。大変感謝しています。


後輩たちへ 

あと数か月です。

例年以上に下級生の力が必要なチームです。もう少し一緒に頑張りましょう。

特にBCキャッチャー、愉快なメンバーです。もう少し頑張って蓮に続こう。


家族へ 

大学まで不自由なく野球させてくれてありがとう。常に兄と比較される毎日でつらいことが多かったけど、それもいい思い出です。

ここまで野球やってきてよかった。

ラストシーズン悔いなく終われるよう頑張ります。


同期のみんな 

面白い人、ちょっと変わった人、激辛に強い人などすごいメンバーだと思います。いろいろ言われてきましたが、最後みんなで勝ちましょう。
 

野球人生最後にしっかりとした「優勝」をしたいです。
 





理工学群応用理工学類 中西駿太
石川県立小松高校
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ラストシーズンに懸ける想い⑨(地球4・竜波駿平/長田、体育4・長曽我部健太郎/北野)

2024年08月23日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。


第9回は竜波駿平(地球4・長田)と長曽我部健太郎(体育4・北野)です。


是非ご覧ください!



こんにちは。

4年捕手の竜波です。






長かった野球人生を終えるにあたり多くの人へ思いを伝える機会をいただけたのでまっすぐに書きたいと考えています。よろしくお願いします。


まず、これまで未熟な自分にご指導くださいました指導者の方々ありがとうございました。

ここまで野球を続けようと決意できたこと。そして、野球を通じて人生を豊かにできたことは間違いなく皆様のおかげです。

重ねてお礼申し上げます。


では本題に入りたいと思います。


今回は自分の考え方に大きく影響を与えた言葉とそれによって変化した野球に対する思いを綴りたいと思います。

1,2年前にベースを踏んで待つ東條さんが「野球をどのようなスポーツと答えるかでその人の野球IQが分かる」とおっしゃっていました。


又聞きなので間違っていたらごめんなさい。

4年生のある選手はそれを伏せて当時の院生コーチにこの質問を投げかけていました。

本当に意地が悪いです。

せっかくの機会なので自分がこの質問をされた場合の回答をここで晒します。


それは「他人に託すしかないスポーツ」です。


このような考えに至ったのも筑波の野球部に入ったからです。

1,2年の半分をCチームで過ごした自分はスタッフミーティング時に選手を辞める可能性が大いにありました。

しかし、自分のわがままで選手を続けた結果、多くの同期に迷惑をかけながらも学生野球というものを通して様々な変化を得ることができました。

大きな変化があったのは去年の関東大会です。

この時は何か貢献したいのに何もできないような虚しさを覚えると同時に自分のこれまでを他人に託すしかないと思いました。


この時ほど過去の自分に失望した日はありません。


ここから自分の野球観が大きく変化をしました。

他人が10年以上続けてきた野球人生の最後に自分が立つかもしれない。

しかし、自分はそんな状況にふさわしいのかと自問自答を繰り返してきました。


それに対する答えはまだ見つかっていません。


今後見つかることもないと思います。


それほどまでに自分たち選手が背負っているものは重いもので、人によって異なるものです。

だから、自分の目ではなく他人の目で評価する必要があると思います。


しかし、全員が等しく後悔せずに終わる方法はあります。


それは勝つことです。


勝つことがこれまでのやるせなさを洗い流すことができる唯一の方法だと思います。

そのためにも勝つことは目標ではなく選手として残った義務です。

そう言い聞かせてこれまで取り組んできました。

1,2年までの情けない自分に託してくれた多くの人の期待を4年の自分が裏切るわけにはいきません。


秋リーグでは結果で示すので見ていてほしいです。









3年生以下。

ここまで自分が書いてきたことを実感している人は少ないと思います。

好きで始めただけだからそこまで野球を重いものととらえたくないと考えている人もいるでしょう。

しかし、この部活動に入っているなら誰にだってその状況は訪れます。

その時に何もできないと後悔してほしくありません。

その状況から逃げるような人にはもっとなってほしくありません。


そのために今を過ごしてください。


他人に対して諦めないでください。


何をすればいいかわからない人はとりあえず練習してください。

チームをまとめるのは4年生なのでそれだけでも十分です。


4年生。

なんだかんだ言って飽きの来ないにぎやかなチームでした。

みんなのおかげでこの4年間が学生野球の中でダントツに楽しかったです。


本当に続けてきてよかったです。


あとはリーグ優勝すればいい感じに野球人生を締めくくれそうなので頑張りましょう。


多くの人が注目し託されているチームとして1日でも長くこのチームで戦いたいです。


今までありがとう。






竜波駿平 生命環境学群地球学類 長田高校





こんにちは。
 
4年投手の長曽我部健太郎です。






日頃より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援のほどありがとうございます。
 
去年、先輩方のラストブログを読み、涙がこぼれそうになるぐらいの熱い気持ちになってからもう1年も経ち、自分たちが書く番になってしまいました。

飯塚君や今野君のようなユーモアのある文章は書けませんが、ぜひ最後まで読んでいってください。
 
 
 
4歳から始めた空手をやめて小学3年生の冬に始めた野球で、13年間自分の人生の中心にあったものが、この秋のシーズンで終わってしまうことに最近寂しさが増す一方です。

これまでの長かった野球人生のなかで、本当に多くの良き仲間と信頼できる素晴らしいコーチや大人の方と出会うことが出来ました。

なので、このブログではそんな人たちへの感謝を書いていきたいと思います。
 
 
まずは僕のピッチャーとしての恩師といえる有方コーチ。

小3の時に入った「千里丘イーグルス」で同時期に入った、今では大親友の有方君の父親で本当に多くのことを学びました。
 

ピッチャーをやり始めて、ピッチングができる!と思い意気揚々とグランドに向かった先でやる練習は、フィールディング、牽制そしてカバーリングばかり。

うまく決まるまで延々とやらされていました。

ようやく形になってきたところでピッチングをやらせてもらえるという、小学生の自分にはまったく楽しくない練習でした。

だけど中学、高校、大学と上がるにつれてその大事さをひしひしと感じるようになりました。


中高とピッチャー経験のあるコーチがいなかった中で、小学生の時に有方コーチに教えてもらうことが出来たのは本当に良かったです。


また、僕が進路を決めていく中でも一番影響を受けたと思います。

関西でも野球ができる大学がいっぱいあった中で、筑波を選んだのも有方コーチの母校だったことが大きいです。

有方コーチに出会っていなければ筑波が選択肢に入ることすらなかったと思うし、こんなにも素晴らしい同期、先輩や後輩にも出会うこともなかったです。

僕が野球を続けていくうえでの目標であり指針でした。


秋リーグは少年野球の時から見てくれた野球人生の集大成です。 


最後まで成長した姿を見せられるように頑張ります。
 
 
中学では顧問の先生方に恵まれたと思います。

中学では大阪府大会で2度優勝したり、近畿大会まで進むことが出来たりと勝つことの楽しさを得ることが出来ました。

それだけでなく、人間的な部分で一番成長させてもらえたなと思っています。

夏の大会前にグランドの周りに生えている木の一本一本に挨拶をするというなかなか意味の分からない練習もありましたが、今ではいい思い出です。

加川先生、奥本先生ありがとうございました。
 
 
 
また、小中高大と、けがの多い野球生活でした。

高校までは肘を痛めたり、足首の捻挫かと思ったら剥離骨折していたり腰椎分離症になったり、と怪我しそうな部位はほとんどコンプリートしていました。

そんななか何とか元気に野球をやってこられたのは地元のあざみ整骨院の院長のおかげです。

診療時間外にもかかわらずお願いしたら治療をしてくれたり、トレーニングメニューを一緒に考えてくれたりと本当にお世話になりました。


プロ野球選手になって宣伝するという約束はまったく叶えられませんでした。


すみません。
 
また帰省した時には焼肉連れて行ってください。
 
 
 
 
 
 
 
そしてやっぱり一番感謝を伝えたいのは両親です。

小学校の時からずっと公式戦だけでなく練習試合も含めてほとんどの試合で見に来てくれたり、大学まで野球をやることでお金もめちゃめちゃかかったと思います。

その中でも自分が野球をめいっぱいできるように支えてくれてありがとう。


何不自由なく野球をここまでやり続けることが出来たのは二人のおかげです。
 
高校までもそこそこ感謝はしていたけど、大学に入ってより一層感謝の気持ちが大きくなりました。


お母さん。

試合や練習から帰ってきて、あったかいご飯が待っていること、次の日には畳まれたユニフォームが置かれていることなど上げ始めたらきりがないです。

筑波に地震が来た時には、心配しすぎて揺れ始めた時ぐらいに電話がかかってくるぐらい、過保護気味ではあったけど本当に愛情をもって育ててくれてありがとう。
 

お父さん。

大学ではなかなか思ったような結果を出せずにいて、期待してくれていたような姿は見せられなかったし、怪我が続いたりイップス気味になったりと多くの心配をかけたと思います。

正直、大学ではつらいことも多く、マウンドに立つことが怖くて、これまで楽しかった試合すら出たくないと思うような時期もあったし、野球に対するモチベーションがなくなりかけたこともありました。

それでもずっと気にかけてくれて応援してくれたことが本当に気持ちの支えになっていました。
 
 
これまで自分が結果を出したいという思いで練習してきましたが、今では支えてくれた二人にリーグで活躍している姿を見せたいという思いのほうが強いです。

本気の野球をしている姿を見せられるのは最後になるけど、これまでの感謝の思いをもって投げたいです。  


13年間ありがとう。


あとちょっと応援お願いします。
 
 
 



 
ここまで長々と振り返ってしまいましたが、ようやくラストシーズンについての思いを話したいと思います。
 
 
最近隼瀬の思い付きで、投手の練習終わりに後輩も含めた秋リーグに向けての思いを1日1人ずつ話していくということをやり始めました。


そこで遠藤が
「4年生が最後思い切ってやれるように下級生が支えていこう」と言っていて、なんて感動することを言ってくれるんだと泣きそうになってしまいましたが、そうじゃない。下級生が気持ちよく腕を振れるように4年生が支えていかないといけないんだと感じました。
 
これまで自分が下級生の時には偉大な先輩方に守られて、自分がピンチを作っても後ろのピッチャーがいるから安心だと思いながら投げてきました。


今年は去年までの4年生に比べて本当に頼りないピッチャー陣だったと思います。

この秋もメインで投げるのは3年生以下になるかもしれません。

それでも試合のキーポイントになる場面は4年生にかかってくると思っています。


波戸さんがいつもおっしゃっています。最後は4年生の力にかかっていると。
 

どんなに苦しい場面でも俺たちが全力で腕を振って切り抜けます。


だから、みんなは自分の力を出せるようにのびのびと投げてください。
 

最後に涼世、柏木、活樹、隼瀬。

この一年間うまくいかないことのほうが多かったけど、チームを引っ張っていってくれてありがとう。


リーグ優勝してこの4人を胴上げしたいです。
 

このチームで、この投手陣で、この4年生で絶対リーグ優勝して、
関東も勝って神宮に行こう。
 
 
 



 
 
体育専門学群
 4年長曽我部健太郎(北野)
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ラストシーズンに懸ける想い⑧(体育4・重久雄多/長崎北、体育4・鈴木星一郎/シートン)

2024年08月22日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。


第8回は重久雄多(体育4・長崎北)と鈴木星一郎(体育4・シートン)です。


是非ご覧ください!



こんにちは。4年投手トレーナーの重久雄多です。
 





これまでは読む側だった「ラストシーズンに懸ける想い」もついに自分が書く側となり、もう引退なのか、あっという間だったな、と感傷に浸っています。
 
ちなみに去年のブログの中で個人的に一番感動したのは桐本さんのブログです。ラストがめちゃくちゃ泣けました。

私も人に感動を与える文章を書こうと意気込んでいましたが、背伸びをしてもあまりいいことはないので、自分のペースで淡々と想いを綴っていきたいと思います。
 

現在は投手トレーナーとして活動をさせてもらっていますが、私にも選手をやっていた時代がありました。

選手時代も含めて、これまでの生い立ちを交えながら大学野球人生を振り返りたいと思います。
 
 
私は長崎県の長崎市で生まれました。
時折、「長崎は外国だ」とか「帰省の時パスポートいるんですよね?」などと言ってくる人もいますが、ギリ日本なのでパスポートはいらないです。
 
野球を始めたのは小学校2年生の時で、父にリトルリーグの練習体験に連れて行ってもらったことがきっかけです。

連れて行ってもらった経緯は忘れましたが、気づけばそのリトルリーグに入団し、中、高、大と野球を続け、現在に至ります。
 
中学、高校では主に外野を守ってきましたが、大学に入ってからは投手として活動することにしました。


制球も良くないし、球も速くないのにです。


そもそも投げること自体得意ではなく、苦手な部類です。
 
投手に転向した理由はいくつかありますが、一番は自分が苦手とすることに真正面から向き合い、少しでも改善して、やればできるんだと自分に自信をつけたかったからです。


これまでは苦手なことに直面すると本気で向き合おうとしてきませんでした。

なので、野球人生の最後に本気で向き合おうと思ったんです。
 
そんな経緯で投手になりましたが、そこからは苦痛の日々でした。
周りの選手が当然のようにできているストライクの通し、PFが全くできなかったのです。

ブルペンの屋根についている凹みの2割くらいは私の仕業だと思いますし、隣のブルペンに投げ込んだこともあります。

投内連携で何度ノッカーの頭にぶつけそうになったことか。

それが悔しくて必死に練習しましたが、なかなか上達しません。


そんな自分が嫌になり、常に部活を辞めたいと思っていました。
 

それでも2年生の秋まで投手を続けられたのは、アドバイスをくれたり、一緒に頑張ってくれた同期や先輩方のおかげです。

みんなのおかげで練習も頑張れたし、入学した頃よりは少しは成長できたかなと思います。
 
そして2年生の秋から投手トレーナーとして活動することになりました。

トレーナーに転向した理由は、将来的にはトレーナーとして活動していきたいという気持ちがあったからです。

それもあって、転向した時から今日に至るまで、高いモチベーションで活動できています。
 
選手の時はチームに何も貢献できていなかったので、トレーナーの活動を通して必ず貢献してみせる、その思いで必死にやってきました。

その甲斐もあって、次第に投手の先輩や同期、後輩からケアを頼まれることが増えていきました。

これまで選手として迷惑ばかりかけてきた自分にとって、その時初めて認められたような気がしてとても嬉しかったのを覚えています。
 

そして3年生の秋、一つ上の代のリーグ戦が終わり、いよいよ自分たちを最高学年とする新チームが始動しました。


そこからの日々は苦悩の連続でした。
 

新チームが抱える課題としてリーグ経験者の圧倒的な少なさがありました。このままでは春リーグで2部に落ちてしまうとまで断言され、まさに危機的状況でした。

この状況を打破するためには今までと同様にやるのではなく、何かを変えなければならない。

そうなったときにトレーナーとして変えられるのはトレーニングの部分であり、これまでよりも量や強度を格段に上げるという決断をしました。

ただ月日が経つにつれ、今やっているトレーニングは本当に意味があるのか、逆に選手のパフォーマンスを下げてしまっているのではないかなどと悩むことが多くなりました。


今となってはあの決断が正しかったのか、見当がつきません。


少しでも選手にとってプラスな影響があったことを願うばかりです。
 

そういうわけで、今年の冬は選手たちにとって過酷な日々だったと思います。

でもそんな状況の中、選手たちは投手リーダー隼瀬を中心に「きつい時こそ頑張ろう」とひたむきに練習に取り組んでいました(裏では文句を言われてたかもしれませんが笑)。

その姿を見て、彼らの努力が報われてほしい、このチームで優勝したいと心の底から思うようになりました。
 

過酷な冬を乗り越え迎えた春リーグ、結果は惜しくも4位という結果に終わりました。


ですが彼らの力はこんなものではないと信じています。


あの冬を乗り越えられた彼らなら必ず、チームを秋リーグ優勝に導いてくれるはずです!

選手たちがリーグでベストパフォーマンスを発揮できるよう、残りの期間精一杯サポートしていきます。

ケアが欲しくなった人はいつでも言ってきてください!
 





以上が私のラストシーズンに懸ける想いになります。
 
 

最後に


この場を借りてお世話になった方々に感謝を伝えたいと思います。
 

先生・院生コーチの方々
トレーナーとして至らない点も多かったと思いますが、ご指導いただきありがとうございました。

特に波戸さんには、チームが勝つ上でトレーナーとして何をすべきなのかを教えていただきました。

ありがとうございました。

最後のリーグ勝って、とり和で美味いやきとりとお酒を飲みましょう。
 
投手の先輩方、同期、後輩のみんな
投手未経験で、ヘタクソな自分を、チームピッチャーの輪の中に入れてくれてありがとう。

1年生の頃はよく、「投手に転向しなければよかった」と何回も思いましたが、今は心から投手になってよかったと思います。


最後はチームピッチャーで勝利に導きましょう
 
 
両親へ
大学4年間、大学野球人生を支えてくれてありがとう。部活でしんどい思いをしたとき、2人はいつも心のよりどころになってくれました。2人の存在がなければとっくに部活もやめ、今の自分はないと思います。
 
ただ一つ心残りなのは、選手として試合に出ている姿を一度も見せられなかったことです。

一度でいいから自分が投げている姿を球場で見てもらいたかったですが、できませんでした。


今でも悔しい気持ちでいっぱいです。
 

ですがせめて、私が4年間どんなチームで活動してきたのかを知ってほしい、その思いで、10/6のホームゲームに来てほしいと伝えたところ、快く承諾してくれました。

選手として試合に出ることはありませんが、筑波の魅力を肌で感じてもらい、自分の息子はこんな素晴らしいチームで4年間活動してきたんだなと思ってくれると嬉しいです。
 
 

チームのみんなへ



私の想いはこのチームで優勝したい、それだけです。

優勝して最高のビールかけをしましょう。
 






体育専門学群4年 重久雄多
長崎県立長崎北高校





平素より、筑波大学硬式野球部を応援してくださり、ありがとうございます。

外野手4年の鈴木星一郎です。






名前よりも、出身校のシートンハイスクールで覚えてくれている方もいらっしゃるかと思います。

あっという間に「ラストシーズンに懸ける想い」を執筆するときが来てしまいました。

光陰矢の如しとはよく言ったものですが、年を重ねるにつれて時間が経つのも早く感じられるというは、どうやら本当のようです。


あまり前置きが長くなるとまた飯塚に話が長いと言われてしまうので、これくらいにしておきます。


大学野球が終わりに近づいているということは、私の野球人生も一つの節目を迎えようとしているということを意味します。

まずは野球人生を振り返りながら、私が野球を通して学んだことをしたためたいと思います。
しばしお付き合いください。


私の野球人生の転機は、2回ありました。

1回目の転機は、小学校のときにヤクルトスワローズJrでプレーしたことです。

それまでの私は自信がなく、小学校低学年の頃の運動会では、砂に絵を描いているような子でした。

小学校5年生のときにヤクルトスワローズJrでプレーすることを目標に定め、毎日自分なりに頑張った結果、無事合格することが出来ました。

合格を通知する電話を、お昼ご飯を食べながら家族で待っていたことを今でも鮮明に思い出せます。

その日のお昼ご飯は、母が作った焼きそばでした。普通より、肉が多めです。


ヤクルトスワローズJrでは、初めて見るような上手な子たちと一緒に野球をやり、とても楽しかったことを覚えています。

お世話になった度会コーチには、「手を見せてみろ」と言われ、コンプレックスだったマメだらけの手を開き、「俺も現役の頃こんな手してたなぁ」と言っていただいたことがありました。

そのときに、初めて自分がやっていることに自信が持てました。

あの経験がなければ、今まで野球を続けることはできなかったかもしれません。


2回目の転機は、高校生のときの留学の経験です。

塩あたりは、またこの話かとうんざりするかもしれませんが、一応聞いてください。

中学卒業後、日本の高校に進学した私は、半年で高校を退学し、単身でオーストラリアへ野球留学をすることを決意しました。

詳しい経緯などについては、私が二年生のときに執筆いたしましたブログに書いてありますので、そちらも併せて読んでいただけると幸いです。

今回は字数の制限があることと、私の語り癖が出てしまうことを考慮し、割愛させていただきます。

オーストラリアでは、三年間を通して、野球の技術を向上できただけでなく、スポーツの魅力について知ることが出来ました。

私は、留学以前は「勝つこと」や、「選手として成長すること」がスポーツの最大の魅力だと感じていました。


しかし、オーストラリアでは、言葉も飛行機の乗り方もわからない、当時15歳の私をたくさんの人が助けてくれて、野球を通じてたくさんの人と出会うことが出来ました。


言葉がなくても、野球によって人がつながっていくという経験をして、私は強く心を打たれたことを覚えています。

そのような人を繋ぐ力こそ、野球、あるいはスポーツの魅力なのではないかと感じました。


競技スポーツを行う人の多くが、スポーツをすることが辛いと感じたことがあるのではないでしょうか。

もしくは、常にそのように感じている人もいるかもしれません。

大学野球をやっていても、1年生で既に日々が辛いと感じている方もいるのではないでしょうか。

私も大学野球を振り返ってみれば、怪我も多く、スタッフミーティング(二年冬に行われる、その後のシーズンからの役職を決めるミーティング)などを通して、辛いこともたくさんありました。


しかし、振り返ってみれば、辛かった思い出にも常にその思い出を笑って語れる仲間がいました。

私が経験したオーストラリアの野球とは体制が違っても、野球によって仲間ができることや、その仲間がかけがえのない存在であるということは世界共通であり、それはとても尊いことだと思います。

だから後輩のみなさん、仲間と野球をできる今を大切に、頑張ってください。






もう一つ触れておきたいことは、今年の6月に行った教育実習での経験です。

本学付属の、筑波大学付属駒場中・高等学校(以下、親しみを込めて、筑駒)では、短い時間の中で生徒が工夫をして練習を行っていました。

私は、当時、このままリーグ戦で選手として十分な活躍をすることなく引退することになるのではないかと不安を感じていた時期でした。

そのような状態で臨んだ教育実習でしたが、筑駒の選手たちは、なんとしても最後の夏は勝ちたいという強い思いで練習に励んでいました。

私が授業準備などを済ませ、グラウンドに向かうと、毎日たくさん質問をしてくれました。

それにより良い感覚を掴んだと嬉しそうに話してくれる生徒たちを見て、私は最後までこの子たちの力になりたいと思うと同時に、私自身も、もっと頑張りたいと思うようになりました。

大学で野球を辞めようかと考えたこともありましたが、教育実習を通して、やれるところまでやりたいと考え直しました。


私は幼いころからアメリカで野球をしたいと思っていたので、卒業後はそれを叶えに行きたいと思っています。

そして将来、教員になって、筑駒の選手たちのような高校生に、私の経験を話せるようになりたいというのが今の夢です。

筑波大学付属駒場中・高等学校の皆さん、ありがとうございました。
 

最後に、家族への言葉を述べたいと思います。


今まで野球をやらせてくれて、ありがとう。

中学のときに病気をしたり、宇都宮線の乗り換えもできなかった俺のわがままを聞いて、留学させてくれてありがとう。

大学も筑波大学にきて本当に良かったです。ありがとう。

ママとはこないだ帰省したときに盛大に口喧嘩しちゃったけど、大好きです。

パパ、仲裁ありがとう。

こうせい(弟)もしばらく会ってないけど、次会うときには温泉にでも行こう。
 


もう私たち四年生は、このシーズンが終わったら引退です。


みんなそれぞれの道に進んで、なかなか会えなくなるのがとても寂しいです。

そんな大切な仲間が出来たことも、それぞれが今まで野球を頑張ってきたからであり、筑波大学に入ってみんなでリーグ優勝を目指して頑張ってきたからだと思います。



最後のシーズン、悔いのないようにやり切りましょう。



Atta Boys







鈴木星一郎 体育専門学群 シートン
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ラストシーズンに懸ける想い⑦(体育4・塩慶大/鳥取西、体育4・塩田智也/星城)

2024年08月21日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。


第7回は塩慶大(体育4・鳥取西)と塩田智也(体育4・星城)です。


是非ご覧ください!


平素より筑波大学硬式野球部への多大なるご支援とご声援をいただき、誠にありがとうございます。

筑波大学硬式野球部 青桐寮4階副フロア長4年の塩慶大です!







4年生のビッグイベントであるブログ執筆の依頼が届き、この場を借りて、17年間の僕の野球人生一切への熱い想いと塩慶大という男の生き様を、、、

なんて考えてましたが、そんなことを書いても皆次の塩田のブログを読み始めてしまうかと思いますので、やめました。

なんせ、普段は野球の話3割、恋の話7割で、「最近どーなん?」と聞くと「それは野球ですか?女の子の方ですか?」なんて聞き返されたり、風呂に入れば恋に飢えた同期や後輩たちと「恋とはなんぞや、愛とはなんぞや」なんて話を何時間も語り合ったりとそんな毎日でしたので、ここに来て何を書いたらいいんだろう、、、と、1週間程途方に暮れておりました。


そんな僕ですが、最後くらい自分なりに想いの丈を綴らせて戴こうと思います!


中・四国地方を代表する山陰のどん、鳥取県の山あいの温泉街に3兄弟の末っ子として生まれました。

保育園・小学校時代は足キャラで名を馳せ、かけっこでも常に12人中、1.2位を争う逸材でした。

小さい頃から外で遊ぶことが大好きで友達と山に行ったり、川に行ったり、洞穴を作ったりと田舎生活を満喫し、お腹が減るとお母さんの美味しいご飯をたくさん食べてすくすくと育ち、ぶくぶくと大きくなっていきました。

野球の方はと言うと、保育園の年長さんの時、母に泣きながらユニフォームを着せられ、兄の練習について行く形で野球人生をスタートしました。

小学校は遠く離れたチームに入部し、平日の水曜と土日は両親に車で送ってもらい沢山練習しました。


でも実際は、低学年の頃はあまり野球が好きではなかったので、平日はよくお腹を痛めたフリをして母に欠席連絡をしてもらい、嘘がバレて練習に行った時には帰り道にモスでロースカツバーガーを買ってもらってなんとかしんどい日々を乗り切っておりました。


そんな小学校時代ですが、先輩や同期、指導者に恵まれ、高学年になる頃には少々野球も上手くなり、野球が大好きな子供に成長しました。

そこで出会った北浦監督、細田コーチ、青野コーチ、山根監督には今でもとても感謝しています。


その後、中学校では、吹奏楽部と茶道部を兼部し、課外でボーイズのクラブチームに入部することになりました。


野球人、ドラマー、茶道家の三足の草鞋で活躍し、一度は芸術の道を志すことも考えましたが、そんな柄ではない為一歩踏み出したところでやめておきました。


高校は模試を沢山受ける県内の進学校、鳥取西に進学し野球を続けました。

中高でも色々な経験をしましたが、長くなるのでその辺りは割愛します。



さて、大学野球を振り返る前に、
皆さんこの言葉はご存知ですか?

『人生は選択の連続である』

僕の保育園からの幼馴染が中学の弁論大会で発表した言葉で、僕もまあまあ好きな言葉です。


『過去の決断の繰り返しが現在ならば、現在の決断の繰り返しが未来を形作るということにもなります。』


Googleで検索するとこう書いてありました。が、ちょっと難しいので僕なりに解釈すると、
「人生の中で選択や決断をする時は、五万とある。大事なのはどの道を選択するかよりも、選択した道が間違いじゃなかったと思える様に日々を生きること。」


これですね!たぶん笑


僕はこの4年間でこの言葉の意味を少し理解できるようになってきたのではないかと思います。


大学3年の春、大きな選択のタイミングがありました。

まぁ、例のプロゴルファー事件ってやつですね、笑


2年の冬にAチームに上がり、リーグ戦に出る為に必死の毎日でした。

でも中々結果を出せず、Aに居るというプレッシャーや技術だけでなく、野球への向き合い方、考え方の違いを痛感し、色々なことが相まって初めて本気で野球を辞めたいと思っていました。


毎日セブンでお菓子を買って、夜中までダラダラして、全体練習を耐え、自主練なんかしないで帰る。そんな廃人の様な生活でした。


その時は、正直辞める以外の選択肢はなく、ここで辞めたら今まで頑張ってきた意味がない、ここで踏ん張れば一回り大きくなる。


そんなことを考える余裕もなかった様な気がします。

さっさと辞めてゴルフの道にでも行こう、なんで野球なんてやってんだろ、そんな思考の連続でした。


でも、そんな廃人を救ってくれたのはやっぱり同期でした。








風呂でゴルフについて深夜2時まで語り合ったおかげで、やっぱりまだ辞めたらダメだ。そう思えるようになりました。


感謝しています。


自分自身で「続ける」という選択を決めた時からこの1年間、時折考えることがありました。

あの時続けると決めた選択が、引退する時、間違いじゃなかった。そう思える1年にしたい。


なんだかんだこの1年間踏ん張り続けられたのは、そのことを不意に思い出し、自分なりに頑張れたからだったからかもしれません。


あの時、続けるという道を選んで本当に良かった。と心から思っています。


『人生は選択の連続である。
どの道を選ぶかよりも、選んだ道を自分なりに懸命に生きる。』


ここでもう一つ大切だと思うのは、「自分なりに」ってことです。


組織の中で活動していると、自分の頑張りが人からしたらそうでもない。なんてことはよくあることだと思います。

でも今はそれでいいと思えるようになりつつあります。


自分の人生を生きているのは自分なので。


これからの人生、こんな経験はいくらでもあるだろうし、誰にだってあると思います。


周りにどう思われたって「俺の人生は俺が決める!」そんくらいの気合いで乗り越えていきます。

そしていつか、日本を代表する営業マンになって、セレブの仲間入りしてやります!
(焼肉でも寿司でもなんでもかかってこい!)



ラストシーズンに懸ける想い、
「リーグ優勝」これしかない!
永戸世代の底力見せたりましょう!



最後に感謝を伝えさせてください。


とーさん、かーさんへ

大学まで野球やらせてくれてありがとう!やっぱり最後まで野球続けて本当に良かった!
保育園から始めた野球もやっぱり最後の最後まで面倒を掛けたけど、たぶん2人がいなかったらここまで続けてこられなかったんじゃないかなって思う。

特に大学の4年間は何度も辞めようと思ったけど2人と話すと、やっぱダメだ、頑張ろうっていつも思えた。


俺にとって2人は偉大な両親です。


最後、必ずグラウンドでプレーする姿を見せられるよう頑張る。
今まで本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。


らいへ

やっぱり大学野球をらい抜きで語るのは無理でした。

同じドーマに配属された当初、年も一つ上で強豪私立出身で最初は結構ビビってた。おまけにポジションも同じで、かなりライバル心を燃やしてました。笑


けどなんやかんや仲良くなれて、毎晩練習終わりにミット磨きながらその日の愚痴を言い合ったり、夜一緒に素振りしたり、みんなで集まってパワプロドーマリーグを開催したりそんな日々を送れたことは俺にとっては最高の時間だった。

大学入ってらいに出会えて良かった!
ほんとうにありがとう。


最後まで読んでいただきありがとうございました。






体育専門学群 4年 塩慶大
鳥取県立鳥取西高等学校





こんにちは。

筑波大学硬式野球部4年塩田智也です。






「ラストシーズンに懸ける想い」としてこれまでの13年間の野球人生の振り返り含めて書かせていただきます。


野球は小学3年生、稲沢少年野球クラブで始めました。総監督がとても熱い男だったので5年からはオフがなくなりました。


中学では尾州ボーイズに入り、砂袋とかいう重りをつけて屈伸を2000回する意味不明なことにも耐えてきました。

その甲斐あってか膝をシャリシャリ鳴らせるようになりました。


星城高校でも優しい先輩や先生に可愛がっていただいたことで生命力が身に付いたと思います。

ここまで思い出したくないようなきついことを経験しても野球を辞めたいとはならず、
なんなら愛は深まるばかりで本当に自分はドMだと思います。


ただこれらの経験からその場を乗り切ることだけ上手くなり、人の目を気にしてばかりで特に他人に対して想いをぶつけることや本心を伝えることから逃げてきました。


このツケが大学に入学後、特にスタッフになってから回り苦しむことになりました。


思うことがあってもまあいいかと流し、脳死で打撃サーキットのゴムを持ち、ひたすらネットへと投げ込むマシーンと化していた自分はチームにより貢献するためにスタッフになったにも関わらず皮肉にもチームにとって無価値でありマイナスにもなり得ると痛感しました。


ただこのような事に気付かせてくれて変わるチャンスをくれた仲間に出会えた事はこれからの人生においてもとても幸運だったと思います。






少し話は逸れますが勝負の世界に生きる僕たちにとって「運」はとても大事なものです。

どっかの学者も人生は能力ではなく運で良し悪しが決まると言っていたので本当にそうだと思います。

共通テスト国語を鉛筆転がしで乗り切ったように、これまで自分は勝負所で上振れを引いてきました。


常々自分は運が良いと言っていますが結局は気の持ちようです。


結果が出なくて落ち込んでいても下振れのまま終わらないよう足掻きましょう。

必ず何とかなります。

自分は寺原さんのラストブログを読んでから「実力も運のうち」が好きな言葉になったのでここで紹介しときます。

二年生以下はぜひ読んでみてください。

このままだと自分の言いたいことは誰かの受け売りだと気づかれてしまうので最後は自分の思いをストレートに伝えます。


まずは両親へ

ここまで野球をやるにあたって多大な支援いただきありがとうございました。なかなか結果で恩返しをする事が出来ず申し訳ない気持ちでいっぱいです。

ただ集大成であるこの秋リーグに向けて自分も精一杯戦っているのでぜひ一度つくばにおこしください。

つくばには親とじゃなきゃ行けない店がいっぱいあります。

ぜひよろしくお願いします。

本当にお願いします。



次に後輩へ

不甲斐ない先輩からのお願いです。
どうか4年生のために力を貸してください。

いくらでもノックするし肩取れるまで投げます。
また、逆に学ぶことばかりの3年野手コーチ陣、たまには頼ってください。飯ぐらいは奢ります。



最後に4年生へ

やるしかないんだよ2024の集大成です。私心を捨てて頑張ろう。

僕は飯塚くんのノックを受ける姿や松尾くんのひたすらバントをする姿、竜波くんや小田切くんの夜遅くまでバットを振る姿を見て勇気をもらっていました。

やっぱり4年生で勝ちたいです。

永戸に続いてください。

そのためにもまだまだやり切れる部分があると思います。いくらでも自主練付き合うのでノックやバッピさせてください。

でもマシンバントだけは選手同士でやってください。

これまでの野球人生なかなか上手くいくことばかりではありませんでしたが総じて良いものだったと思います。

大学生活は偉大な先輩や優秀な後輩にも恵まれ楽しい思い出ばかりです。


後はマジでリーグ優勝、神宮に行くだけ。


野球やってよかった。






体育専門学群4年 塩田智也
星城高校


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ラストシーズンに懸ける想い⑥(体育4・笹原一馬/札幌南、体育4・佐藤浩太郎/高松

2024年08月20日 20時22分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第6回は笹原一馬(体育4・札幌南)と佐藤浩太郎(体育4・高松)です。
 
 
是非ご覧ください!


平素より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援いただき誠にありがとうございます。

筑波大学硬式野球部4年の笹原一馬と申します。









拙い文章ではありますが、最後までご愛読いただけると幸いです。


私が筑波大学の硬式野球部に入部しようと思ったきっかけは高校2年の夏にさかのぼります。

夏の大会前に筑波大学の助教である奈良先生の講演を受ける機会がありました。そこで当時筑波大学野球部のコーチをされていた奈良先生の口から、筑波大学は「科学・効率を超越した野球」をしているというお話がありました。

私は最先端の野球の研究をしている筑波はデータや練習の効率化に力を入れているイメージがあったので、奈良先生の講話に目からうろこでした。


元々高校で野球を終えるつもりだったのですが、高校野球最後の年が新型コロナウイルスで活動が満足にできなかったことや高校の監督の薦めもあり、筑波大学に進学することを決めました。






実際にこの4年間を振り返ってみて、入学当初思い描いていた大学野球生活とは大きく異なっていました。

ほとんどの時間を下のチームで過ごし、今SSDとしてこの野球部に携わってきた人間としてこの筑波大学の特徴をあげるとするならば、良くも悪くも「一体感のあるチーム」だと感じています。


4年生を中心に毎年それぞれのカラーが出るチーム作りをしているため、一人ひとりの個性が出やすい反面、毎年同じような課題にぶつかり、その課題に気づくのが遅かったというケースを何度も見てきました。


これからチームを作っていき、筑波大学を引っ張っていくことになる後輩たちに向けて、大切にしてほしい考えは「本質を見極める」ことです。


チーム作りでもプレーの面でも、自分たちの理想を求めることも大切ですが、なかなかうまくはいかないということをこの4年間で痛いほど思い知らされました。

地に足を付け、自分たちのできること、できないことを正しく見極め、結果を求めていくことが必要だと思います。


そのために周りの人を頼り、周りをうまく巻き込むことで自分自身やチームが良い方向に進んでいくのではないかと思います。


筑波大学野球部のメンバーの一番の強みは全力で努力し続けられることだと思います。

その努力の方向を間違えずに、なおかつ自分自身のチームの良いところを見失わず、良さを前面に発揮していってほしいと思います。


ここまで偉そうに書いてきましたが、大学でたいした活躍をしていない一人の人間が何か言っているくらいに思ってもらって大丈夫です。


ただ、能力があるのにいかしきれていない選手、まだまだ上を目指して努力している選手に少しでも届けばいいという想いで執筆しました。


ここまで私自身の野球人生を支えてくださった、前川監督、渡邊監督、田畑先生をはじめ多くの方に支えられ、様々なことを学びここまで野球を続けることができました。

本当にありがとうございました。

楽しいことや苦しいことなどいろいろありましたが、野球にかかわることができて本当に良かったと思います。

今後は自分が学んだことを何かしらの形で次の世代に受け継いでいけるようにしていきたいと思います。




最後に、両親へ。


小学校から続けてきた学生野球もあと数か月で終わります。その間献身的なサポート本当にありがとうございました。

何不自由なく思い切り野球をすることができたこと本当に感謝しています。未熟な自分ですが、野球に携わることができて本当に良かったと思います。

たくさん迷惑をかけた分、立派な社会人となり成長した姿を見せられたらと思います。


私はSSDとしてできる限りのことを尽くしてメンバーをサポートしていき、チームのリーグ優勝という目標に貢献していきたいと思います。


長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。


秋リーグも筑波大学硬式野球部への温かいご声援をよろしくお願いします。






体育専門学群4年 笹原一馬
北海道札幌南高等学校






平素より筑波大学硬式野球部への多大なるご支援とご声援をいただき、誠にありがとうございます。

4年の佐藤浩太郎です。






文章を書くことが本当に苦手なので、拙いところもあるかもしれませんが、最後まで読んでいただければ幸いです。


まずは、簡単に自己紹介をさせていただきます。

私は香川県高松市で生まれ育ちました。

「うどんしかない」とか「四国は日本じゃない」とよく馬鹿にされますが、香川県は本当に素晴らしい場所なので、皆さんぜひ一度足を運んでみてください。


私は小学校2年生の時に野球を始めましたが、なぜ野球を始めたのかはあまり覚えていません。

でも、幼いころから公園で野球をしたり、阪神戦を観に甲子園に連れて行ってもらっていたのでそれがきっかけになったような気がします。

小学校から高校までの間、指導者からはよく怒られてばかりでしたが、それでも中学校までは香川県内でそこそこ強いチームで、良い結果を残せたと思うので満足しています。


高校では、勉強と野球を両立できる環境を求め、高松高校に進学しました。

しかし、試合では負け続け、悔しい日々を送りました。

ようやくその成果を発揮しようと意気込んでいたところで、新型コロナウイルスの影響により学校が休校となり、春の大会は中止。

夏には代替大会がありましたが、満足のいく高校野球生活を送ることができませんでした。


このままでは後悔が残ると考え、筑波大学への進学を決意しました。



野球部に入部してからの4年間を振り返ると、苦しいことの方が圧倒的に多かったと感じます。

新人練を終え、初めてAチームの紅白戦のブルペンに立った時には暴投を連発し、それ以降は制球が定まらず、ほとんどBやCチームで過ごすことになりました。

やっとのことでAチームに昇格しても結果を残せず、すぐに降格してしまうことばかりでした。

昨年の冬にはサイドスローに挑戦しましたが、これもうまくいきませんでした。

ラストシーズンは、リーグ戦に出場するという目標も叶わずに終わってしまいます。






それでも、苦しいことばかりの大学野球生活の中にも、楽しい思い出がありました。

特に、寮生活はたのしい思い出となりました。

怖い先輩がいたり、貸した車がボッコボコにへこんで返ってくるなどの苦い経験もありましたが、仲良くしてくれた同期や後輩のおかげで、充実した時間を過ごすことができました。

特に、同じ寮の階で生活していた後輩の遠藤、西川、瀬川には本当に感謝しています。

ノックなしで部屋に押しかけて迷惑をかけたこともあったと思うけど、一緒に話したり、食事に行ったりして楽しい時間を過ごすことができました。


これからも仲良くしてね。
 

この場を借りて感謝を伝えたい人がいます。


まず指導者の方々。


小学校から怒られてばかりで、野球をやめようと思ったことは何度もありましたが、厳しく指導していただいたおかげで、技術面だけでなく人間として成長できたと思います。

特に、小学校6年生から今まで指導してくださったトレーナーの伊礼先生。

伊礼先生がいなければここまで成長することはできませんでしたし、筑波大学という存在を知ることもありませんでした。

本当にありがとうございました。


次に家族。

何不自由なく野球を続けさせてくれてありがとう。今までの野球人生、本当に苦しいことが多く、迷惑をかけることばかりあったけど、両親の支えがなければここまで野球を続けることはできませんでした。

そして、自分のことを一番応援してくれていた祖父にも感謝の気持ちを伝えたいです。

祖父は私の大学入試の約1週間前に病気で亡くなりました。高校三年生の夏の大会では、治療で大変な中、毎試合観戦してくれていました。

亡くなる前に、大学野球で活躍するという約束をしましたが、それを果たすことはできませんでした。

それでも、祖父の存在があったからこそ、ここまで頑張れたと思います。
 

ラストシーズン。


これまで何度も悔しい思いをしてきましたが、最後に優勝して終わりたいです。

そのために自分にできることを精いっぱいやり抜きます。
 





体育専門学群4年佐藤浩太郎
香川県立高松高等学校
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ラストシーズンに懸ける想い⑤(体育4・今野大気/札幌国際情報、応理4・坂田光優/足立学園)

2024年08月19日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い

平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 


第5回は今野大気(体育4・札幌国際情報)と坂田光優(応理4・足立学園)です。




日頃より筑波大学硬式野球部へのご支援とご声援、誠にありがとうございます。


4年の今野大気です。



気づけばもう、自分がラストブログを書く番がやってきました。


「こ」の中ではかなり弱い方の今野という名前ですが、今回は何番目かとしてブログが回ってきてしまいました。
幼少期からしみじみと振り返りたいと思います。


小学校3年生から野球を始めました。ですが、チームの練習以外で野球をした記憶が一切ありません。


友達の家に集合して北風公園に行き、野球場でサッカー、道路でバスケ、児童会館周りの住宅地で鬼ごっこ。門限になり家に帰って父に卓球を教わる毎日を過ごしていた記憶があります。


鬼ごっこはよろしくないですね。


野球が好きというよりは友達といる手段の1つとして野球をしていたのかもしれません。


それだけ良いチームメイト、友達に恵まれました。


中学は投手で甲子園出場、プロ野球選手になるという夢を叶えるために肩肘の負担の少ない軟式野球を選びました。


しかし、中3の夏に右肘の靭帯を損傷。


完治した中3の冬、高校野球に向けファイターズアカデミーという野球教室に通いました。
その際にブルペンでの投球練習中、


ブッチン


というとんでもなくでかい音がブルペンに響きわたり、私の右肘の全ての靭帯が完全に断裂。


さぞブルペンもびっくりしたことでしょう。


高1でトミージョン手術。
それ以降思うように投げられなくなり、野手になりました。




何とか高3でレギュラーになることができ、春の北海道大会の準決勝では奇跡のホームランを打つことも出来ました。


夏も勝ち上がり、甲子園をかけた決勝戦2点ビハインドの9回裏にチームの皆が2点を追いつき、満塁で迎えたサヨナラのチャンスをセカンドゴロで甲子園を決められず。


同点の延長14回表の2アウト2塁でセカンドゴロをエラーし、1点を献上。チームを負けさせ、甲子園を逃す。


その際はグラウンドに入れる穴はないかと全力で探しまわりました。


ありませんでした。


このエラーは今も毎日思い出し、負い目を感じています。




ですが、チームメイトはその後私を責めることなく練習後の部室のように接してくれました。


高校でもよいチームメイト、友達に恵まれました。


高校の監督である有倉先生の
自分のためにやる野球は中学まで、高校からは人のために野球をやれ
という言葉のもと、高校では人のため、チームのために野球をしました。


その結果、野球において一番好きなプレーはカバーリングになりました。


大学では家族に高校では見せられなかったいい姿を見せるため野球を続けました。


しかし、思うような結果が出ず、今度は肩を痛めセカンド正面のゴロをセーフにしてしまい、今野前ヒットといじられる始末。


よく考えると中学以降、全力で球を投げれた記憶がありません。


2年生のトライアウト前少しAチームにいさせてもらいましたが、トライアウトでは帰省で体が鈍っており、ミットにボールが入ってからスイングをかまし、三振。Cチーム。


あいやー


マネージャーとしても昨夏のBキャンプで新型コロナウイルスのクラスター感染を発生させてしまう。


あいやー


これ以外にも大学ではたくさんの失敗をしてきました。


ですが、大学生活もチームメイトや友達のおかげで楽しいです。


この学年、チームでよかったなと思います。


大学でもチームメイト、友達に恵まれました。



このように私はこれまで自分に関わってくれた指導者、チームメイト、友達、全ての人に恵まれてきました。


本当にありがとうございました。


私がお金が無くても何時でも誘いを断らないのはこれほど恵まれている人達と明日以降必ず会えるとは限らないからです。


私は部活が終わって無くなる関係はなんの意味もないと思っています。


部活が終わってもかけがえのない存在であり続けますが、その前にこの学年でリーグ優勝、日本一になって、美味しいウーロンハイを飲みましょう。



最後に家族へ
何不自由なく野球をやらせてくれたのにも関わらず、活躍した姿を見せられず申し訳ありません。ですが、野球を通して沢山のことを学ばせてもらいました。本当にありがとう。


拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。



体育専門学群4年今野大気
北海道立札幌国際情報高校普通科1組







平素よりご支援ご声援のほど承り、誠にありがとうございます。

筑波大学硬式野球部4年坂田光優です。



何の変哲もない普通の文章となりますが、お読みいただけると幸いです。よろしくお願いします。

 
ラストブログを書くにあたり、4年間を振り返りましたが、いい思い出よりはるかに悪い思い出の方が多いような気がしました。

常に痛みを伴いながらの投球、思うように出ない結果、野球以外のやるべきことと折り合いをつけながら、何かと我慢をしながら過ごしていた印象が強いです。

いい思い出としても、プレーをしていた時の思い出ではなく、時間のある限り夜通し遊んだり、サマーなどの遠征での記憶などです。

時折、いや常になぜ野球をやっているのか疑問を持っています。

3つ上の高校の先輩を追いかけて筑波を目指し、血眼で頑張った受験を終え、筑波の門をくぐったわけですが、どのようにその門から出ていくのでしょうか。

入ってすぐコロナがあり、野球をできる環境はほとんどありませんでしたが、たくさんの規制の中、秋の天王台は無事実施され、そこで先輩とバッテリーを組むことができ、とてもうれしかったことを覚えています。

中学の指導者の方はその話を聞いてとても喜んでいたそうです。

1年の時はとくに目立った結果は残さず、そのまま時の流れに従って、あっという間に先輩との野球を終えたわけですが、その後のことは全く考えていませんでした。

リーグに出たいという気持ちは常に持っていたので、そこからは気持ちを切り替えて、リーグに出ることを目標に日々を過ごしました。


この時期は、総合学域の移行期間と被っていたため、メンタル的に大変だった気がします。


その時期を乗り切り、少しずつ大学野球に順応して、少しずつ結果を出せるようになりましたが、2年の間ではAに上がることはできませんでした。


3年になるまで結果を残し続け、春にようやくAオープン戦で投げれるようになりました。

しかしベンチ入りは果たせず、悔しさに加えて、少しもどかしい気持ちもありました。


時は過ぎ、3年の春リーグが行われ、入れ替え戦の可能性がなくなったため、最終節のメンバー入れ替えのための3週間の紅白戦が行われました。


当時の投手ヘッドにも結果を出してくれと念押しされましたが、結果は可もなく不可もないピッチングでした。


それではベンチに入れる訳ありませんね。


この時点で体はボロボロでしたが、頭はすぐにトライアウトに向いて、オフも返上で練習を繰り返しました。

この時期が一番充実していたかもしれません。

野球をして、授業を受けて、課題をこなして、ストレッチして寝るというサイクルを永遠に回していました。

トライアウトの日を迎え、必ず抑えると意気込んでいたわけですが、結果は皆さんの想像以上のピッチングをしました。


当時の記憶はあまり残っていません。


そこからの時の過ぎるスピードは音速を超えていました。

肘は限界を迎え、サイドスローになり、サポートに回り、そして今に至ります。


 
自分の大学野球をざっと振り返りましたが、皆様どうでしょうか。

今までに掲載されたリーグ戦士、これから掲載される経験豊富な文章に比べて、あまりパンチのない文章となってしまいました。


ここに記すべきではない感情・環境など、書いたらキリがないのですが、その類の刺激は適していないので、結果的に普通の文章となってしまいました。

 

話を戻します。

なぜ大学野球を続けたのでしょうか。

答えはありきたりですが、辞め時がなかったからです。

長く続けたものをやめる勇気はなかなかカロリーが大きいものです。高校生のときの生半可な感情ではカタボリックを起こしていたと思います。

今までは辞め時には迷路を彷徨いましたが、今は長いつり橋の残り1割にいる気がします。

後ろを見れば山に入り込むトンネルがあり、きれいな山岳風景を拝めるわけですが、よく見たいと歩む向きを変え、再び迷子になることだけは御免です。


問答無用、一方通行の橋をゆっくりと歩きながら、渡り切りたいと思います。

 
感謝を述べます。

崇成さん。先輩なしでは4年間走り切れませんでした。相談に乗っていただいて本当に感謝の言葉しか出ません。本当にありがとうございました。


誠洋さん。大変ご迷惑をおかけしました。結果を残せず、本当に申し訳ありません。このやり切った感は、誠洋さんとの練習の日々があってこそです。今もなお様々な相談に乗っていただき、崇成さん同様感謝しています。これからもよろしくお願いします。


和田宅に集合するちょっとおかしな人たち。楽しいひと時をありがとう。僕の幸せの一部分です。これからもよろしく。

 
本を読むのが好きで、すこし変な比喩を使っているかもしれませんが、ご自愛ください。

最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
これからも筑波大学硬式野球部のご支援ご声援のほどよろしくお願いいたします。



坂田光優 理工学群応用理工学類 足立学園高等学校



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ラストシーズンに懸ける想い④(体育4・菅野涼太/仙台第三、教育4・久米遼/敦賀)

2024年08月18日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 


第4回は菅野涼太(体育4・仙台第三)と久米遼(教育4・敦賀)です。



こんばんは
4年投手トレーナーの菅野涼太です。

筑波大学硬式野球部へ憧れを抱き、現役では見事に不合格だったものの、浪人し共通テスト直前模試で体専1位に輝くほど成長し無事合格しました。

それからはや3年、もう最後のシーズンになってしまいました。野球がへたくそな自分がよくここまで続いたなと驚いています。

高校では3年春で背番号1をもらうも登板は1試合のみ。夏の大会は背番号10で登板なし。

大学に入り周りとの差に圧倒されアンダースローに転向するもいろいろなところが痛くなり投げられなくなる。
オーバースローに戻すもフォームがおかしくなりイップスみたいになる。
引退しトレーナーになる。(寒野の言う通り不甲斐ない大学野球生活です)

悲惨な野球人生でしたがここまで続けられたのは両親の存在があったからです。


高校の時から暇さえあれば応援に来てくれましたが、公式戦では活躍する姿を見せることができませんでした。

大学でも結果が出ず、スタッフミーティング前に選手をやめてスタッフになろうと思うこともありましたが、ずっとそばで応援してくれた両親に最後に何としても活躍する姿を見せたいと選手を続けることができました。

結局活躍する姿は見せられませんでしたが、両親は野球部のインスタグラムをよくチェックしており、少しでも写っていると連絡してくれました。

ストーカーなのではと疑ってしまいますが、うれしいので通報しません。安心してください。


そんなこんなでやってきたラストシーズン


自分は投手トレーナーとしてBCチームの下級生を見てきました。後輩のみんなに多めに思いを綴らせてもらいます。

(その前に面倒くさい人でごめんなさい。おそらく下級生の半分くらいからは嫌われていると思います。道具を元の場所に戻さない人、雑に扱う人にはしつこく怒りました。道具が紛失しても壊れても困るのはあなたたちです。おそらく自分が引退したらト


レーナー倉庫とシャークで使いたい道具を探すのにかなり時間がかかると思います。覚悟しておいてください。)






3年生
怪我ばかりでブルペンで投げる姿を片手で数えるほどしか見たことない未完の大器、天王台リーグの時期だけ大活躍するほわほわ系男子、中学生など癖の強いメンツが集まっています。

4年生が情けない分、君たちを本気でリーグメンバーに食い込ませるために取り組んできたつもりでした。
でもリーグに投げるどころかBの試合ですらまともに投げられていない姿を見ると本当に悔しいです。

自分の示してきたトレーニングメニューで君たちの球速を上げることもコントロールをよくすることもできませんでした。

ごめんなさい。

自分の努力不足だと思ってるかもしれないけど、俺が悪かった。

トレーナーとしてまだまだ何も知らない俺にとって君たちの課題を考えることは非常に難しかったです。

でも選手一人一人に真摯に向き合うことの大切さを学ばせてもらいました。それぞれどれだけの課題をつぶせたのかはわからないけど、前より成長できていたのであればうれしいです。

来年のリーグ戦で君たちが最強の投手陣の一角を担ってくれていると信じています。

2年生
君たちは全員お調子者ですが、野球に対してはまじめで驚かされます。信頼してくれていたのに、結果出せなくて本当に申し訳ない。

自分の無力さを痛感させられました。

でもトレーニングに対する考え方とかは教えることができたと思います。3年生は前に立つ人が少ないから君たちが率先して下級生を引っ張っていってほしいし、間をつなぐ役になってください。

少し仲が良くないかと感じるので、定期的に投手会を開いて本音で語り合えるようになるといいチームになるかと思います。

1年生
一緒に練習した期間は2か月くらいですが2年生と同じくらいの距離感で来ます。自分が1年生の時は4年生にがつがついけなかったので羨ましいと感じていました。

それとも俺がなめられていたのかな?

関わる時間が短いけど君たちのことを知ろうと思って積極的に話しかけた結果であれば大成功かなと。

君たちは周りが見えていないところがあるので、細かいところに目を配ってほしいと思います。楽しくやるのはいいけど、自分たちだけの世界に入り込まないように。
いつか足元をすくわれるかもしれません。

プレー以外の面でも成長した姿を見せて欲しいと思います。






最後に4年生へ
はじめは小中と後輩の活樹だけだった「菅野さん」呼びも今では野手にまで広がってしまい、そのせいでなぜか距離感を少しだけ感じています。

入学したときは選抜で優勝した人もいるし、140キロ投げる人がたくさんいて今まで経験してきたレベルとは大違いで驚きと同時に興奮があったことを鮮明に覚えています。

選手としては何一つ印象に残っていないかもしれませんが、寝坊したり寝坊したり寝坊したり大変ご迷惑をおかけしました。

申し訳ありません。

今はもうプレーで貢献できないので残されているのは雑用と応援しかありません。

熱中症にならないように美味しいジャグを作り、道具を綺麗にして、ハーフの守備をするくらいです(バッピは頭に当ててしまうのでやりません)。

入れ替え戦だと言われてスタートしたこのチームですが、なぜか神宮で躍動するみんなの姿をイメージできます。

初戦からオールインでいこう!

筑波大学という恵まれた環境で立派な後輩たちのおかげでいろいろな経験を積み、将来トレーナー(S&Cコーチ)として億万長者になるための礎を築くことができたと思います。

まだまだ0.005人前くらいのトレーナーですがプロ野球の世界で名を馳せられるように努力し続けたいと思っています。


拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。






体育専門学群 菅野涼太
宮城県仙台第三高等学校






こんばんは。

硬式野球部四年久米遼です。






この4年間を振り返ると、上手くいかないことばかりでした。

一歩進んだかと思えば三歩下がり、進んでいるかと思ったら逆走していたり、時にはバッターの背中側にボールが飛んでいったりと沢山の思い出があります。


そんな自分にここまで野球を続けさせてくれた家族、同期、先輩や後輩、指導者の皆さんには感謝の気持ちしかありません。


僕のブルペンでの悲痛な表情を映画風に加工して励ましてくれた一井や、風呂でゴルフについて深夜2時まで語り合った塩、他にもたくさんの人に刺激をもらってきました。


最近は二年の曽我くんの自分を曲げない強さにすごく感銘を受けています。






ここまで迷惑をかけた分、少しでもこの筑波大学硬式野球部に報いて引退を迎えたいです。


それがリーグ優勝という形で現れるなら何よりの幸せです。


我らのキャプテン永戸や柏木、ピッチャー陣を引っ張ってくれた活樹、隼瀬、一井は本当に苦しい一年間だったと思います。


スタート時は先行きが全く見えないチーム状況で、それでも前に進んでいけたのは矢面に立ってチームを引っ張るこいつらがいたからです。


永戸世代の1年間が正しかったと証明するためにリーグ優勝しましょう。


月並みなラストブログにはしたくなかったのですが、やはりこのブログを書いていると月並みな思いが出てきてしまいます。

このチームがめちゃめちゃ好きだし、同期とは笑って終わりたいです。


引退の学年会は自分が幹事します。

絶対全員来てください。






人間学群教育学類四年 久米遼
福井県立敦賀高等学校





















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ラストシーズンに懸ける想い③(体育4・小田切大也/会津、社会4・寒野雄太/西宮)

2024年08月17日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 


第3回は小田切大也(体育4・会津)と寒野雄太(社会4・西宮)です。





こんにちは筑波大学4年小田切大也です。




はじめに、監督をはじめとする指導者の方々、スタッフ・関係者の方々、今までご指導いただきありがとうございました。


毎年何気なく読んでいたラストブログですが、とうとう自分が書くになりました。なんだか不思議な感覚です。


またそれと同時にラストブログを書くということは小学校3年生から始めた学生野球が終わりに向かっているということでもあり寂しさを感じます。


普段から自分のことをあまり口にしませんがこのような機会なので自分なりに書こうと思います。




私は小学校3年生から野球を始めました。しかし、なぜ野球をやりたいと思ったのか、なぜ始めたのか全く記憶がありません。


ただ野球が好きで楽しくて友達と遊ぶにしても野球、テレビを見る際はプロ野球何をするにしても野球が身近にあったような気がします。



リトルリーグに入団したのですがまあまあ強く本気で全国大会を目指していました。なんなら行けるものだと思っていました。しかし、東北大会で負けてしまい号泣したのを覚えています




中学校ではボーイに入団しました。ボーイズの練習がない日は中学校での部活を終え下校した後すぐに先輩や同級生、後輩と室内練習場に集まり、毎日練習していました。


今では考えられません。



リトル、ボーイズ指導者との出会いがなければ野球をここまで好きになり、大学野球を続けることもなかったと思います。



本当にありがとうございました。




高校は不完全燃焼で終わってしまいました。


毎日の練習は2時間程度で気付いたらす終わっていました。秋、春と聖光学院に負け夏も全く何もできずに負けてしまいました。


コールドで負けたのですがあまりにも歯が立たず絶望し、6回くらいに守備に付きながら明日から受験勉強かーと思ってしまいました


終わってます。


同級生、後輩のみんなごめんなさい。



浪人もしていますが文字数の関係で割愛します。


ただ小中高浪人と本当に仲間に恵まれ今の自分がいます。




そんなこんなで筑波大学に入学します。




大学で多くの人に出会いました。


この場を借りて感謝を伝えたい人がいます。

まず、Bヘッドであった傳谷さんと榊原さんです。


自分がノックやハーフをお願いした際は、日が暮れるまで練習に付き合っていただきました。


私がリーグ戦に出場できたの2人のコーチのおかげです。本当にありがとうございました。


次に西浦さんと生島さんです。


普段の自主練リーグ戦の前泊の際にご飯に誘っていただいたりと大変お世話になりました。


また、アップの時間の雑談や自主練中野球の技術について話したりするのがとても楽しかったです。ありがとうございました。




話は変わりますが、私は筑波大学というチームが好きです。


リーグ戦になるとグランドの選手とスタンドが一体となって勝ちに向かう姿はどこのチームにも負けておらず誇りです。



そのような部分から学んだことがあります。 



この一体感はグランドでプレーする選手とスタンドで応援してくれる選手スタッフの信頼関係によって生まれるものであるということです


自分が選手であるため選手目線で書きますが、選手は応援してくれるスタンドのみんなにこいつならやってくれるといったように信頼してもらこいつのために応援しようと思われる選手になる必要があると思います。


そのために普段の私生活や練習態度、言動に責任を持たなければなりません。これらのことをチーム作りを通して、また、最近より一層思うようになりました。



後輩には筑波の良さ1つでもあると思うので受け継いでもらいたいです。


こんな一丁前なことを言っていますが自分もまだまだだと思うので信頼される選手、応援される選手を目指してラストシーズンまで走り抜けたいと思います。



また、野球への取り組み方にも影響を与えました。



これまでは、結果を出すことに執着し、自分のことばかり考えていました。


しかし、筑波大学でプレーしていく中で学生スタッフに感謝の気持ちを持ちながらプレーするようになりました。


普段のノックやバッティングピッチャーしてくれるおかげで自分たち選手練習することができているし、キャンプや試合ができるのはマネージャーがさまざま準備をしてくれるから、リーグ戦で打つことができるのはSSDの対策のおかげです。



いつも本当にありがとう。



そして、ラストシーズンの目標はリーグ優勝です。これまであと1歩のところで優勝できずにチームとしても、個人としても悔しい思いをしてきました。


この悔しさ感謝の気持ちを忘れずにリーグ優勝という目標を実現できるように頑張ります。

 



最後になりますが両親に感謝の言葉を述べたいと思います。



これまでなんの不自由もなく野球を続けさせてくれてありがとう。最後のシーズン悔いなく良い形で終われるように頑張ります。




他にも色々書きたいことはありますが文字数の関係で割愛します。気になることがあれば聞きに来てください。



纏まりのない文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。

 



体育専門学群4年小田切大也

福島県立会津高等学校







こんばんは。寒野です。



ブログ締め切り当日にもかかわらず、21:00過ぎまで書くのを忘れていました。僕の悪いところが出ていますね。森本君すいません…。

SSDで鍛えられたタイピング技術を駆使して急ピッチで書いたため、拙い文章になっているとは思いますが、お付き合いいただけると幸いです。
 


楽しみに読んでいたラストブログもいよいよ書く側になってしまい、小回りを走っているときは永遠に感じた大学野球も今思うとものすごく一瞬だったなと感じています。

飯塚君や南原君のような面白い文章は書けないので、まじめに波乱万丈な大学生活を振り返っていこうと思います。
 

新型コロナウイルスの影響で高校野球最後の春、夏の大会が中止となり、さらにろくに練習もできない環境の中で怪我をしてしまい、最後の独自大会はベンチに入ることすらできませんでした。


そんなやりきれない気持ちのまま受験勉強に励み、倍率9倍の壁を突破して筑波大学社会学類に入学しましたが、一向にけがは良くならず、結局大学に入ってからは3回しかブルペンに入ることができませんでした。


自転車で転んで骨折するなどプチアクシデントはありましたが、覚えている人はほとんどいないくらい下級生のころは影が薄く、虚無な日常を送っていました。

正直、この期間に野球部をやめたいと思ったことは幾度となくありました。
 

そんな生活を送っている最中、僕の中で大きな転機が訪れます。

2年の夏帰省が終わり、憂鬱な気分でつくばに戻ってきた次の日、スーパーで買い物中に意識を失い、救急車で運ばれ、入院することになりました。

部活が憂鬱すぎたせいなのか、帰省ではしゃぎすぎたせいなのか、倒れた原因は不明ですが、しばらくの間体調は良くならず、結局1か月以上部を離れることになりました。

その期間このまま野球部を辞めてしまおうかこれまで以上に相当真剣に悩みました。
 

ではなぜ踏みとどまり今も野球部にいるかと言ったら、それはおそらく重久君と菅野君のおかげだと思います(本人たちは自覚ないでしょうが…(笑))。


今でこそトレーナーとして大活躍の2人ですが、当時は僕と同じく不甲斐ない(といったら怒られそうですが…)大学野球生活を送っており、ともにCチームで頑張っていた仲間でした。

そんな2人が練習後に見舞いに(からかいに)家に来てくれて、その時に「もう少ししたら練習行くわ」と話したのが一歩を踏み出すきっかけになりました。

そして、その後行われた学年ミーティングに活樹よりも白い顔で参加し、一足早くスタッフになる決断をしました。
 


ここまでの重い話とは対照的にSSDになってからは充実した生活に一転しました。

SSDといっても何かわからない方も多いと思うので簡単に説明させていただくと、主に映像やデータを用いて、対戦相手や自チームの分析をするスタッフの役職です。

毎週末朝から晩までバックネット裏でリーグ戦を全試合見たり、市長杯前に3日マネ室でほぼ寝ずに作業したりと、大変なことも多いですが、それ以上にチームの戦力になれている充足感があります。

そして何よりもそれまで畏れ多くて話しかけづらかった波戸さんや偉大な先輩方とも仲良く話せるようになって飲みに行けるようにもなったことが先輩っ子の自分にとってはうれしかったです。(げんちゃん早く飲みつれてってね)
 


SSDになって精神的に余裕ができてから今までなかった親への感謝の気持ちが芽生えてきました。


こういう題材のブログとしてはありきたりすぎて飽き飽きかもしれませんが、高校時代は家族とほとんど会話することがなかった自分にとってはここじゃないと書くことができないのでお許しください。


大学に入って1人暮らしを始めてから、ご飯を作ったり、洗濯をしたり、掃除をしたりがどれほど面倒くさいかを思い知りました。

SSDになって遠征費が倍以上に増えて僕の貯金が尽きても負担してくれたり、大学院に進みたいと言ったときも快諾してくれたりと最近は本当にありがたいなとひしひしと感じています。

とりあえずは大学院に落ちて、負担を増やしてしまわないように勉強頑張ります。
 

自分は今まで知らなかった新しい道を拓いてくれた筑波大学野球部に感謝しています。

もしかしたら今後一生この仕事をするかもしれないですが、学生野球はこれで最後です。

最後の最後は自分の役割を全うして悔いのない終わりを迎えたいです。


春リーグ後悲惨なリーグ反省を話しましたが、あれだけ過酷な練習を乗り越えたピッチャー陣ならやってくれると割とまじで信じています。


最後の最後で優勝して良い景色を見させてください。
 
p.s. 今シーズンこそはノーエラーでハマスタ、神宮に連れてってください宮澤くん。
 
 
最後まで読んでいただきありがとうございました。



社会・国際学群社会学類4年 寒野雄太
西宮市立西宮高等学校



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ラストシーズンに懸ける想い②(体育4・飯塚将洸/高崎、工シス4・一井日向汰/武蔵野北)

2024年08月16日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第2回は飯塚将洸(体育4・高崎)と一井日向汰(工シス4・武蔵野北)です。
 
 
是非ご覧ください!

皆さんこんにちは。



筑波大学硬式野球部4年、桐の葉隊長(筑波大学宣揚歌「桐の葉」を輪の中心で、子供が泣き出すほどのどでかい声で歌い、チームに勢いをもたらす重役)の飯塚将洸です。







平素より、筑波大学硬式野球部への多大なるご支援、ご声援をいただき誠にありがとうございます。







遂にこの「ラストシーズンに懸ける思い」を書く時が来たということで、これまで16年間続けてきた野球人生に終止符が打たれようとしています。


すがすがしい気持ちが半分、今までずっと生活の中心だったものがなくなってしまうことに対するさみしさ半分です。


真冬のバッティングでの手がとれたと錯覚するほどの激痛、冬場のトレーニング前のとてつもない嫌悪感、大雨の音で起きたときの目覚めの良さなど、あげればきりがないほどのものが経験できなくなってしまうと思うとちょびっとさみしいです。




さてさて、今回は今までの野球人生を振り返り、ラストシーズンに懸ける思いを綴っていきます。

昨日、蟻川にとんでもないハードルの上げ方をされましたが、いつも、ふざけてばっかりなので、今回ばかりはまじめにいこうと思います。


ということであまり面白くないかもしれませんが、しばしお付き合いいただけたら幸いです。



兄の背中を追い小学一年生から野球をはじめ、それからどんどん野球にのめりこんでいき、毎日のように実家の壁で壁当てや素振りをしていました。


壁当てでは、暴投をして家の車に当ててしまい、その当たった音に母親が気づきよく怒られていました。

自分は「当たってないよ」とバレバレの嘘をついていました。小中はこのようにただ楽しく野球をやっていました。




その後の高校野球。


なんといっても顧問の先生のクセがすごい。

まずは、境原先生。

どでかい声でとにかく常に叫んでいました。ノックでエラーするとマシンガンノックを打ってきたり、素手でノックを受けさせられたり、幾多の伝説があります。

「高崎高校」の名前が場内アナウンスで流れるたびに、今は天国にいる境原先生に聞こえているかなと考えます。もっと聞かせられるように最後頑張ります。


次に大隅先生。

この方は将棋部で50m走5秒台(自称)という奇人です。通学バックに鉄板を入れ、足首には重りをつけ、電車の中ではつま先立ちしながら単語帳を読んでいたらしいです。

高高野球部はこれを見て笑っているでしょう。

他にもたくさんの武勇伝があります。

そんなクセがすごい先生のもと、愉快な仲間たちと本気で野球に取り組んだ3年間はとても大切な思い出です。




そしてこの4年間の大学野球。


この大学野球を一言で振り返ると、非常に苦しかったです。周りの同期はABチームに配属されたり何かしらでBに呼ばれる中、自分だけCに取り残されていたり、練習すればするほど結果が出なくなったり、415事件を経験したり。

常に劣等感と戦っていました。


スタッフミーティングでは、仲の良い同期がスタッフになる決断をしていく中、選手として活躍したいという思いが捨てきれず、自分は選手として残りました。

その後も結果が出ない日々は続き、自分に選手を続ける資格はない、そんな気持ちに支配され、あれだけ好きだったはずの野球が本気で嫌いになりました。

ここでは伝えきれない身の毛がよだつ記憶が今でも脳裏に浮かびます。




苦しい思い出だけじゃありません。楽しい思い出もあります。


入学当初、塩田、またの名を怪物に餌付けをしてしまいました。

この浅はかな行動で、家のものを食い滅ぼされてしまう恐怖に4年間おびえることになりました。その流れが伝播したせいか、急に大群で家に押しかけてきて家のものを食い荒らす獣たちが急増してしまいました。


また、4年春には待望のリーグ戦に出場することができました。多くの人からの声援が本当に嬉しかったです。ポジションから聞こえてきた大声量の飯塚コールは一生の宝物です。



他にもたくさんの楽しい思い出がありますが、星一郎の話くらい長くなりそうなので割愛します。同期のみならず、先輩後輩と、とても面白い仲間たちに巡り合え、元気とユーモアのある日々を過ごせました。

これからもよろしくお願いします。




そして後輩と両親に伝えたいことがあります。



後輩、特にBCチームにいるみんなへ
“ぶれない”って何においても大事ですよね。バッティングでは軸がぶれない方が良いし、守備では送球のラインや目線とかぶれない方が良いですよね。

心も同じだと思います。何か一つでもぶれないものを持ち続けてください。挫けてしまうことは誰にでもありますが、そんな時、ぶれない心があれば、何度でも立ち直ることができます。


何度でも何度でも立ち上がるんだ!



また、隣にいる仲間を見てみてください。

そこにはきっと、一生の仲間がいることでしょう。仲間とのつながりはこの先何十年とあります。もしかしたら、この“つながり”というのはみんなの人生にとって野球よりも大切なものかもしれません。


だから大切にしてください。



そしてなんと先日、とてつもなく落ち込んでしまった人を助けるために、入り口に花壇をつくりました。朝から昼の間は花が開き、夕方には花が閉じるという花を植えたので、花が閉じたら練習終了とします。

そのお花畑を見てほのぼのし、心の傷を癒してください!



両親へ

普段なかなか直接感謝の気持ちを伝えられていないのでこの場を借りて伝えます。


ここまで野球を続けさせてくれて本当にありがとうございました。2人の支えのおかげでこんなにも充実した幸せな野球人生を送ることができました。
「もう野球嫌いだわ」など、親にとっては悲しいことも言ってしまいました。
ごめんなさい。


今はやっぱり大好きです。



最後、良い姿を見せれるようにあと少し頑張ります。


最後にラストシーズンへ向けて




自分たちは、暑い時も寒い時も、朝早く起きて夜遅くまで練習して、人生の夏休みである大学生活を野球に捧げてきました。

その積み重ねてきた日々を信じ、どんな結果が待っていようと、最後まで戦い抜きましょう。野球はどのスポーツよりも最後まで何が起こるかわからないスポーツです。そこが野球の好きなところです。


このブログを書いていたらふつふつと魂が熱くなってきました。




最後、みんなの輪の中心で「桐の葉」を歌って優勝の祝杯をあげるのが楽しみです!


長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。



体育専門学群4年  飯塚将洸
群馬県立高崎高等学校






こんにちは
硬式野球部4年、投手の一井日向汰です。




去年は先輩たちのラストブログの担当をさせてもらっていました。あっという間に自分の番です。

いざ自分が書く立場になると、何から書けばよいのか、野球部での出来事はたくさん浮かんでくるのに、どれもこのブログに書くって程でもない些細で他愛のないものばかりで...



名前順が早いこともあり、あっという間に期限が来てしまいました。
自分は話すのが上手くなくて、自分のことや自分の思いを伝えることができる機会も少ないので、この機会にたくさん書いておこうと思います。




自分が野球を始めたのは幼稚園の年中のとき、それから今まで野球を続けてきているので、約18年間野球をしてきたことになります。




小学校では「ひばりが丘ヤンキース」に入りました。市内では負けなしの強いチームで、プロみたいに木製バット使ったり、憧れのプロ野球選手のフォームを真似しながら野球をしていた記憶があります。



中学では「西東京秀道ベースボールクラブ」に入りました。監督にたくさん説教され、怒られ方と投手としてどうあるべきかをたくさん教わりました。

あの時の自衛隊予備軍とも呼ばれた地獄のようなトレーニングのおかげで、大学でも小回りだけは長曽我部と張り合えています。



高校は「武蔵野北高校」というあまり野球の強くない高校でやってました。





そして今、筑波大学で野球をしています。


テレビや野球場で見ていた、あの選手みたいになりたいという憧れがずっとありました。



最後の試合15-0でコールド負けするような高校野球生活を送ってもなお大学で野球を続けようと思った理由も、神宮での開会式でグラウンドから観客席を見上げたとき、ここで野球をしてみたいと思ったからです。


武蔵野北/エシスという肩書や寮外生であることから、よく分からない変わった人だと思っている人もいるかもしれないですが、自分はただ野球が好きで野球をしに大学に入りました。

(もし体専の募集があれば体専受けてましたし、もし寮に呼ばれていたら入ってました!)



そして大学では、選手として誰よりも濃い経験をさせてもらいました。


1年のときは日体大の矢澤選手対策のバッピで好投することで1週間だけAチームに上げてもらえました。

(緊張とストレスで一の矢からの道は毎日憂鬱、1週間で激やせしたのも今ではいい思い出です)



2年では自分の大学でのターニングポイントとなる出来事が起こります。

春リーグの東海戦、寮生でコロナが蔓延したことによって、寮外生の自分が初登板、初先発でのリーグデビューをすることになりました。

そこで偶々良い投球をすることができ、何とか試合を作ることができました。自分でもやれるのではと思いましたし、これがAチームに定着できるようになったきっかけでもあります。




ただ3年では挫折を味わいます。
リーグに帯同するようになるものの、チャンスを勝ち取ることができず、点差がついた場面で少ない出場しても結果が残せない1年間でした。



そしてなにより、3年春リーグでは、明学戦でのタイブレークでの登板で制球を乱し、自分のせいで先輩たちのリーグ優勝の夢を終わらせてしまいました。


先輩たちが本気でリーグ優勝を目指してきた姿勢を見てきたからこそ、自分の力不足を悔やみ、また自信も失ってしまいました。



村上さんを中心に、4年生だけでも戦っていけるのではないかをいうくらいの実力あるピッチャーが揃っている中で、試合でマウンドに上がっても、「自分なんかがマウンドに上がっていいのだろうか」、「こんな凄い応援のなかで実力のない自分がマウンドに上がるのは申し訳ない」とまで考えるようになっていました。




そして4年になり、それまでリーグ戦を主戦力で戦ってきた先輩たちが引退しました。



新チームの状況は、基本的な連携プレーや牽制など、それまで先輩たちのチームでは当たり前にできていたプレーができない、監督には「このままの投手力では入れ替え戦だ」と言われるような状況でした。



そのようなチーム事情もあり、冬のトレーニング期間では、ピッチングの基礎となる徹底的な身体づくり、体力づくりのためのウエイト、走り込みを行いました。

3年のリーグ戦で全く通用しなかった経験から「この練習が本当に実を結ぶのか」という不安を抱えながらも、ひたすらトレーニングしました。




春リーグでは開幕投手を務めることになりました。


それでもまだ自分の中では、「自分1人では試合を作ることはできない」だったり「自分は国本が復帰するまでのつなぎ役でしかない」といったように、これまでのリーグ戦での経験から自分に自信を持つことはできないままでいました。




しかし迎えた第1節の桜美林戦、厳しいトレーニングの甲斐もあり、投げていて感じた打者の反応はこれまでのリーグと確実に違ったものでした。


その後も勝ち点を懸けた3戦目での先発を経験したり、徐々に結果を残せるようになっていく中で、プレッシャーに感じていた応援も試合に臨む覚悟を決める力強い後押しだと感じるようになってきました。


「自分なんかが」と思っていても、自分がやらないといけないときは必ず来ます。



どれだけ自分の実力に対して自信を失っても、自分を奮い立たせる原動力となったのは、経験の少ない投手陣をどう良くするか考え続け自分を追い込み続ける、ヘッドの活樹や投手リーダーの隼瀬の姿でした。



自分もやらなきゃと思いました。


彼らに報うため自分もひたむきに取り組みました。




最後のリーグ戦に向けて


後輩たちにリーグ戦で自分のような経験をさせないためにも、自分の経験を伝え、練習では最後まで妥協しないようチームをつくっていきます。



だからどうかついてきてほしい。



試合での厳しい場面は4年生が全部背負います。



だから少しでも自信を持ってマウンドに立ってほしい。




秋リーグ、全部背負ってマウンドに立ちます。



今まで少年野球、中学、高校、大学と自分に野球を教えてくれた、成長させてくれた方々のために投げます。



チームのためにスタッフに回ってくれた活樹、あさひ、しげ、菅野さん、坂田に報えるように、試合に出られない選手の分まで背負えるように、頑張って投げます。




エースとして、チームを背負って、応援に背中を押されながら、マウンドに上がれることを噛みしめながら投げます。



最後まで全員の力を尽くして、全部の試合勝ち切りましょう。



まだまだ練習できるし、もっと上手くなれる!
全てやりきって絶対に後悔しないラストシーズンにしよう!




理工学群工学システム学類 一井日向汰
武蔵野北高校





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