筑波大学硬式野球部のブログ

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#26『一瞬に生きる』 (尾上達哉/体育4・宮崎西)

2021年07月15日 22時07分59秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

平素より筑波大学硬式野球部への厚いご支援、ご声援誠にありがとうございます。

はじめまして。尾上達哉と申します。

今自分は母校である宮崎西高校で教育実習期間中です。本日、水泳の研究授業が終わりほっとしたところでこのブログを
書きはじめました。拙い文章でありますが最後まで読んでいただければ幸いです。

ちなみに、先程、先輩のけいすけさんから婚約指輪を買ったと電話がありました。ご結婚おめでとうございます。

ブログを書くにあたり、何を書こうかなんと3分にもわたり非常に悩みましたが、やはり僕にしか伝えられないのは
あの2年間だろう、と。笑

僕は2年間の浪人を経て筑波大学に入学しています。


高校時代の僕と言いますと、「勉強?なにそれおいしいの?」といった感じで、県内でも有数の進学校であるのにも
関わらず、野球するか、遊ぶか、寝ているかといった生活を送っていました。そんな生活を送っていれば当たり前の結果
ではありますが、お恥ずかしいことに高3の夏に受けた模試ではマークシートにも関わらず900点満点で300点も
取れませんでした。

そんな高校時代、学年最下位を取ったこともある僕が2年間で筑波大学に入学したメソッドを知りたい受験生の方は
筑波大学硬式野球部受験対策係までお問い合わせください!!

また、この大逆転劇が映画化、ドラマ化されたとすれば、今春の超話題作「ドラゴン桜」に匹敵する感動の受験物語と
なること間違いなし!!映画制作会社の皆様、ご連絡お待ちしております。

はい、冗談はさておき、、、

現役時代、古文の助動詞すら覚えてなかった自分が1浪目、自分で言うのもなんですが、割と必死に勉強して
筑波大学体育専門学群を受験しました。

落ちました。

1103点が合格最低点でした。僕の点数は1102点。

あと一点足りませんでした。

流石にこの時ばかりは、ウルトラスーパーポジティブ人間の僕でも落ち込みました。

「どこの一点だったんだろう」

「1浪目、妥協した時間がその一点につながったのではないか」

そんな反省をいかして、2浪目は「まだできることはないか、妥協していないか」と常に自問自答しながら、
一生に一度の成人式にも出席せず、必死に勉強し、筑波大学に合格しました。初めて、嬉し涙が出ました。


この浪人話を踏まえて、自分が皆さんにお伝えしたいこと、それは

「一瞬に生きる」

と言う言葉です。小久保裕紀さんの座右の銘としても有名です。

意味としては、一瞬一瞬を全力で生きて、悔いのないようにする、ということです。

とにかく、この1分、1秒を全力で生きて、目の前のことに全身全霊で取り組んでいれば、結果の良し悪しに関わらず、
後悔なんてあろうはずがない。僕も心からそう思います。


選手として大した結果が出せていない僕の大学野球ですが、「一瞬に生きる」ことができていたためか、
ここまで自分が選手として歩んできた道に後悔はありません。これは本心です。

今、Bチーム、Cチームでくすぶっている後輩には特にこの言葉を伝えたいです。

Aチームと比較して環境も決していいとはいえないし、チャンスも学年が上がるにつれ、限られてきます。

学年が上がるにつれ、いろんなことが見えてきたり、周りの同期が結果を出しはじめ、不安になったり、言い訳を
したくもなります。そんな時こそ、「まだできることはないか」と考えながら、目の前の一瞬一瞬を大切に練習に
取り組んで欲しいなと思います。

普段、不真面目な僕が大真面目なことを書き、なんかよくわかんない感じになってますが、要するに僕が今一番
伝えたいことは、地元宮崎に帰省したいということです。

まとまりのない文章でしたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。これからも筑波大学硬式野球部の応援よろしくお願いいたします。

 

それでは、

帰省しまs…

間違えました。

失礼致します。

 

体育専門学群4年 尾上達哉

宮崎西高等学校

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#25 「最終話で笑ったやつへ」 (辻広貴/体育4・甲府西)

2021年07月15日 18時39分07秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

皆さんこんにちは。筑波大学硬式野球部4年の辻広貴です。

教育実習という帰省を含んだ一大イベントが終わってしまい、少し気持ちが沈んでいる中ではありますが、
私なりに精一杯ブログを書けたらなと思います。時間を持て余している人は読んでいただければ幸いです。

 帰省の話題が出ましたので少しだけ大好きな地元である山梨県についてお話ししようと思います。

山梨県のいいところは何といっても自然豊かなところでしょう。これを言うと田舎なだけじゃんとよく言われますが、
それこそがよいところなのです。鳥もつ煮込みはおいしい。放蕩もおいしい。ぶどうに至っては皆に配り歩きたいくらい
おいしいです。(もったいないのでしませんが。)そして、なんといっても富士山があります。(富士山は静岡県のものだ
とかいうくだらない意見は受け付けておりません。)

 ほかにも大好きな武田信玄公や富士急ハイランドの話をしたいところではありますが、話が大きく逸れていって
しまう恐れがあるためやめておきます。ですがベンチでの声出しで「風林火山の火で行こう」というと言うことで、
毎回やり過ごしていることにだけはこの場を借りて感謝させていただきたいと思います。
武田信玄様ありがとうございます。

 

 前置きが長くなりましたが、皆さんは悩み事や辛い出来事があったとき、どのように自分を奮い立たせていますか。

ありきたりですが私は音楽を聴くことで自分を奮い立たせています。特に菅田将暉さんの「ロング・ホープ・フィリア」
という曲にはこれまで何回も支えられてきました。今回はその歌詞の一部を紹介したいと思います。

「最終話で笑ったやつへ トロフィーとしてのハッピーエンド 
 願わなきゃ傷つかなかった 望まなきゃ失望もしなかった
 それでも手を伸ばすからこその その傷跡を讃えたまえ」という歌詞です。

 

これまでの大学野球生活を振り返ってみて、選手としての自分の良い思い出と、苦しかった思い出を比較すれば、
圧倒的に苦しかった思い出の方が多いです。

なぜ自分は評価されないのか。評価される程の実力がないからなのか。
これについてはとても悩むところだとは思いますが、評価されないのを人のせいにするのは嫌で、ひたすら自分の実力を
伸ばし、チームに必要な存在になるしかないという想いで練習に励みました。

4年生の春リーグでようやくベンチ入りを果たし、ユニフォームをもらえた時は大学での3年間を認められた気がして、
純粋に嬉しかったです。ですが、登板機会はありませんでした。もちろんユニフォームをもらうためだけに筑波大学に
入学したわけでも、野球を続けてきたわけでもないので心は満たされませんでした。

選手としてプレーするからには自分が試合に出て勝ちたい。これはだれもが思うことだと思います。下級生のころ、
自分が出てない試合にチームが勝っても素直に喜べない自分がいました。4年生になり、チームのことを考えることが
増えて以前よりかはチームの勝利に純粋に喜べるようになりましたが、今でも心のどこかには自分が出て勝ちたいと
思っている自分がいます。

試合に出て勝つためにもっとできたことがあるのではないか、という後悔は今後一生消えることはないと思います。
選手を続けている以上、この後悔を少しでも減らせるよう大学野球生活の残り数か月を全力で頑張りたいと思います。

 ですが、今の私にはこの後悔以上にしたくない後悔があります。
それは、中学以降の野球人生が公式戦優勝経験なしで終わってしまうというものです。

勝利を目指して続けてきた野球で一度も優勝できずに終わってしまったら、人間的な成長という視点では意味があったな
と言えるかもしれませんが、一番シンプルに野球を続けてきた意味がなくなってしまうのではないかと少し思ってます。

4年生にとっては次の秋のリーグ戦が筑波大学硬式野球部の一員として戦える最後のチャンスです。
泣いても笑ってもラスト。どうせなら最終話で笑えるように、手を伸ばした意味があったなと思えるように、
一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。


これからも筑波大学硬式野球部へのご声援のほどよろしくお願い致します。
拙い文章ではありましたが、読んでいただきありがとうございました。

 

春リーグを不本意な順位で終えてしまった筑波大学硬式野球部。残された時間は残り僅か。
幾多の試練を乗り越えて悲願の優勝を果たすことができるのか!

 

次回「天に北斗輝くとき」

 

 

体育専門学群4年 辻広貴

山梨県立甲府西高等学校

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#32 『夢を描く』 ~言葉の力~ (松木令伊/体育4・今治西)

2021年07月15日 18時27分42秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

皆さんこんにちは。

筑波大学硬式野球部4年の松木令伊です。



現在、私は帰省中で故郷の愛媛にて、このブログを書かせて頂いています。(執筆中)

久しぶりの長期オフということで、心も身体もリフレッシュ!最高の帰省ライフを堪能しております。帰省大好きな
野球部員一同も、この幸せなひと時を満喫していることでしょう。

 

さて、恒例となってきたこの野球部ブログ。

依頼が来るまで、どんな事書こうかな?と色々考えてましたが、ここでは自分がこれまでの人生において
大切にしてきたこと、信念のようなもの、について書いていければなと思います。

できるだけ簡潔に書こうと思うので、ご興味がある方も、そうでない方もしばしお付き合い下さい。





『夢を描く』

 

これは私が最も大切にしているモットーの一つです。ちょっとカッコつけすぎて、こそばゆい感じしますが、
こうゆうクセェ感じも意外と好きなので、語らせて下さい。



Softbank創業者、孫正義さんの言葉にこのような名言があります。

自分が持った夢に自分の人生はおおむね比例する結果を生む。」

 

孫さん曰く、

夢はでっかい方が良い、

現実がこうだから夢ばかり見ていてもダメだと言っている人ほど、
現実の世界から抜け出せずに終わっていく場合が多い、

とおっしゃっております。

私はこのことを非常に大切にしてきて、幼いころから現在に至るまで、かなり夢見がちな少年だったと思います。

小さい頃から野球が好きで、甲子園に行くことを夢見て県内屈指の強豪校に何とか入学。これまでとは全く違った
環境に悪戦苦闘しながらも人間的に成長できた経験を得ました。また、大学選びの際には野球と学業を一番高いレベルで
実現することを夢見て、当時全く手の届く気がしなかった筑波大学を志望。周囲から猛反対を受けながらも
何とか合格を掴み取りました。

時に無謀な挑戦すぎて反対意見を受けることも多々ありましたが、常に自分の意思で決断してきたという自負が
あります。そして、これからも夢を常に描き続けていくつもりです。

 

もちろん実現できていない夢も多少ありますが、でもこの挑戦があったからこそ、今筑波大学という素晴らしい大学で、
素晴らしい仲間と野球ができているのだと痛感しています。







夢を描くことは大切。じゃあ、夢を描いて、どうすればいいの?
でっかい夢を創ったところで、どう実現していけばいいの? 
ということで、実際に私が密かに行っている、夢を実現するコツをお伝えしたいと思います。



 

「言葉にする」



これがコツです(笑)。かなり普通かもしれませんが、これほんとに効果があるんです。

 

私はこれまで誰にも見せていませんが、iPhoneのメモに自分の成し遂げたい夢を言葉にして、箇条書きに記しています。

 

こうすることで、自分の目指すべきモノ、コトが明確になり、そこに向かう為のアクションを起こしやすくなります。




日本には古くから、”言霊” ということばがあり、言葉には何か不思議な力が宿っていると信じられてきました。
ある言葉を自分が発言したり、文字に起こしたりすることで、それが本当にその通りになっていく。

少し非科学的に感じるかもしれませんが、言葉には確実に人の意識や、行動を変化させる力があり、それによって
自分の人生を大きく変えうる可能性を秘めていると思います。

 

私も実際に高校の頃から、このiPhoneの”夢メモ”を実践しており、書いた夢を数年後実現した時に、
いつもメモを見返してはその不思議なパワーに驚かされています。

ただ、もちろん思うのは、これまで支えてくれた周りの人たち、環境、親、など多くの人やコトに感謝をしつつ、
夢を描き続けて、自分の道を切り拓いていく、これが大切なのかなと感じています。




少し暑苦しいブログになってしまいましたが、これが私の大切にしていることです。

もし今、夢がないという人も、一度深く考えてみて下さい。いま夢が見つからなくても大丈夫です。

 

そういうひとも、まず色々なこと(これまでとは違うアクションが特に大切)にチャレンジしてみる。 
→やりたいことがきっと見つかる。 
→それを言葉にする。 
→努力する。 
→夢が現実へと変わる。 

このステップを踏んでいくと、より豊かな人生になるのかもしれません。




これを読んだ皆さんは、携帯のメモ機能を開いて自分の夢を一言で書いてみてください!そしたらそこに向けて
様々なことにチャレンジと努力をしてみてください。ほんとなんでもいいんです。どれが正解なのかなんて、
そのときはわかりません。正解とはあくまで結果論で、無駄なことは結局無駄じゃないと思います。
がむしゃらに突き進んでみて下さい。そして数年後気が付くと、夢が叶っていて、その時にもう一度、携帯に書いた
”夢メモ”を開いて見てください。言葉が持つ魔力に驚かされることでしょう。
(最後までクサい感じになってしまいました。申し訳ございません。)




最後にこのチームで成し遂げたい夢を書いておきます。

 

「リーグ優勝、日本一」

 

実現した時に、またこのブログを開こうと思います。





松木令伊

筑波大学 体育専門学群 4年

愛媛県立今治西高等学校出身

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#27 私はどこからきたのか、私は何者か、私はどこへ行くのか (野条大雅/体育4・佐倉)

2021年07月15日 18時23分56秒 | 2021年 俺の話を聞いてくれブログ

 

「あの日の夢をいまもずっと追いかけ続けていたら、今頃僕はどこにいて、何をしていたんだろう」
(コブクロ.「蒼く優しく」より)


野球をやり始めた人はほとんどが思ったであろう、プロ野球選手になりたいと。自分もその1人であった。
小さい時から祖父とテレビで野球観戦をし、幼稚園に行く前にはおもちゃのボールとバットでバッティングをしていた。
野球が好きだった。

ただいつからか、野球選手になろうなんて思わなくなった。

なんでだったのか、野球を始めた頃から今までを振り返ってみたいと思う。



自分は小さい時から野球に触れることが多かった。それは先ほど書いたことでもあるが、祖父と一緒に野球を見ていた
など身近に野球があった。

小学校1年生の秋には八街マリーンズという少年野球チームに入っていた。「ピッチャーと4番になりたい」なんてことを
監督に言っていたような気がする。
始めたてのころは金属バットがとても重かったし、飛んでくるボールはめちゃくちゃ怖かった。
フライを捕る時に逃げて捕ってたらケツバットもされた。それなりに痛かったし、やりたくなくなったこともある。
それでも立ち向かったし、何よりできた後に褒められたのは嬉しかった。

4年生になるちょっと前から野球が嫌になり始めていた。

マリーンズの監督は勝負にこだわる方で、非常に厳しかった。高学年の試合に4年の頃上級生が少なかろうとそんな理由で
負けることなど許されなかった。だから勝つために相当な練習、試合を積み重ねてきた。野球をしたく無いと思うことが
ほとんどであったが、試合に勝てばもちろん嬉しかった。だけどそれは本当に一時的なものに過ぎなかった。

4年生の時で印象的だったのは低学年の方の大会である。
この時から高学年の試合に出ていたから、低学年の試合では負ける気がしなかった。だが、県大会であと一歩のところで
勝てず準優勝に終わった。

あともう少しのところで負けた。だからといって、何か自分が変わったとかそういうものはなかった。
全体練習がきつすぎて自分から何かやろうとか思わなかった。
この習慣(?)みたいなものはずっと続いている。

6年生になって、4年生の頃のように勝てるかといったらそうではなかった。自分たちの代は明らかに千葉県の野球の
レベルが高かった。自分にとって印象的だったのは、坂倉(現広島)・木澤(現ヤクルト)だった。坂倉は走攻守どれも
レベルが高く、同じ郡で戦うこともあったので非常に嫌な選手であった。木澤に関してはシンプルにボールが速いし、
加えて人よりも前のポイントでリリースするから全然バットにボールが当たらなかった。
県大会の最高戦績はベスト8だった。なかなかに練習を積み重ねてきたが、優勝することはできなかった。プロ野球選手になることや小学校2年の時に夢見たロッテJr.に選ばれることなんて無理だとわかった。

小学校で野球は辞めようと思った。体力をつけることとかなら陸上部にでも入ればできることだし、きつくて叱られてばかりの野球をなんで続けなければいけないんだろうって思ってた。


それなのに、中学でも野球を続けた。中学校の部活動ではなく、佐倉シニアで。自分が嫌だと思った方を選んでいた。
知っている方も多いと思うが、佐倉シニアは全国で見てもいわゆる強豪と呼ばれるチームである。自分の代でも
島がロッテにドラフトで選ばれた。何が佐倉シニアを強豪たらしめているのか。それは圧倒的な練習量である。1日中
練習するし、平日でも週3日はナイター練習があった。

めちゃくちゃバット振って、ノックを受けて、最後にダッシュを何十本もやった。試合の結果によって罰走みたいな
こともあった。やっぱり野球が嫌になった。いや、こんな鬼の練習をしてまで野球をやりたいと思わなくなった。
どうせ試合で怒られるくらいなら試合に出なければ良い。そんな風に思ってた。
それでも、自分が通っている中学と違う人と会えて友達の幅が広がったのは良いことだったしまた、鬼の練習をした
成果は出てきたというのもよかったと言えばよかった。

レギュラーになれなかったが、このおかげで自分の将来像が一つできた。選手をサポートする仕事である。
ランナーコーチという仕事もそうだが、休憩時間とかでマッサージをお願いされることもあった。自分にとっては
これが悪くなかった。少年野球の時は選手としてやるのが当たり前だった世界だった。それがシニアに入って、
サポートをすることが自分に向いているなと感じたし周りからもそれが認められたことが心地よかった。
筑波大のような体育・スポーツ系の学部を目指すようになったのもこの頃である。

高校は佐倉高校に進学した。巨人の長嶋終身名誉監督の出身校である。

高校に入ってから、勉強も野球も大変だった。外部模試で、学年でビリから2番目という成績も残した。
野球の方では佐倉シニアで野球をやっていたというプライドみたいなものが自分を駆り立てた。バッティングでの
存在感を見せることができ、1年生ながら背番号をもらうことができた。

夏の大会では、先輩の怪我もありスタメンで使っていただけた。その責任の大きさは計り知れなかった。まだ入部して
3ヶ月の自分が試合に出ることの重さがある中、自分は期待されていると感じながらプレーした。初戦では3打点上げる
ことができ、自分の存在感を見せつけることができた。この頃あたりから野球が楽しく感じていたかもしれない。

高校の時の目標は21世紀枠で甲子園に行くことだったが、それは叶わなかった。

高校野球引退後受験に向けて勉強したが、100点以上足らず浪人した。

浪人時代は体育進学センター(タイシン)に通った。毎日片道3時間の通学だったが単語の勉強などをすることができた
のでそれほど苦労しなかったし、なにせここでの生活が楽しかった。今マネージャーを務めている黒堀とはここで
出会っている。

浪人の生活で唯一大変だったことがある。減量だ。
当時、身長が168cmで体重が74kgあった。体組成をみてみると肥満と分類された。タイシンの先生に「お前は痩せろ」と
言われ、2ヶ月間かなり本気で減量した。毎日体重を計測し、食べるものに関しても何をどれくらい摂取したのか記録して
カロリーの収支計算もおこなった。食べる量に関しては相当減ったし、その中で運動量も増えたのでみるみる減量して
いった。結果として、2ヶ月で8kg減量した。

浪人の期間は先述したが楽しかった。何が楽しいと自分に感じさせてくれたのか。1番は実技の授業があったことだ。
これはただ単に勉強の鬱憤晴らしで実技があってその結果精神的に良かったとか、そういう話ではないと思う。
実技の授業を通じて、同じ浪人仲間との結束力が上がったからだと考えている。

人間というものはどうも1人では戦えないらしい。仲間の存在・支えがあってこそ何かに立ち向かえる。ある種の
心理的安全だ。支えがあることで人は何かを頑張れるみたいである。そしてこの心理的安全を生み出したのはほぼ間違い
なく実技の授業であろう。

1年間浪人して、筑波大学に入ることができた。頑張ったものが報われたという嬉しさ、食事管理を手伝ってくれた母、
安くない年間の授業料を払ってくれた父、勉強や実技を教えてくださった先生方には今でも感謝している。
その一方、ともに筑波を目指してきた仲間がみんな受かったわけではない。その悲しさもあった。


浪人してまで筑波に来たので、大学での経験は貴重なものになるようにしたかった。授業は科目問わずそれなりに
真面目に聞いた。体育・スポーツという一分野に対して様々な切り口があることが自分には面白かった。

また、2018年から始まったアスレチックデパートメント(AD)の活動への参加もした。今まで大学をはじめとする
学校スポーツが持っていなかったであろう視点でスポーツを考えることができることに面白さを感じたし、ADのモデルと
なっているアメリカの大学スポーツが日本の大学スポーツのとは全く違うということに驚きを感じた。
これはアメリカで実際に見て感じたことである。(最近、NCAAが学生アスリートのエンドースメントなどを認めることを発表したみたいで、今後のスポーツ市場がどのように変化するのかかなり気になっている。)


このような経験から、自分は将来大学スポーツに関わることができたらいいなと考えている。アメリカのように
スポーツでより多くの人を魅了したいし、そこから学生が勉強・スポーツに打ち込める環境を作っていきたい。


部活の方に関しては木のバットに慣れることができなかった。思うようにバットが出てこなくて、高校の時との差を
感じた。おまけに1年の10月に右の脛を骨折した。これがなかなかタチの悪い折れ方でちゃんと骨がくっつくのに
5ヶ月くらいかかった。初めの方は大学生活もしんどくなるほど何もできないような日々が続き、一度手術で入れた
ボルトを抜く手術もしたのでまともにやれたのは2年の8・9月あたりだった。

まあ、そこから選手として続けるのは無理だった。それなのに、なんでかなスタッフミーティングの時には、
はじめは選手を続けるなんて言ってた。対して、多くの人から選手は続けないほうがいいと言われた。それでもって
スタッフに回ることを決めたが、スタッフに回れば良かったわけではなかった。そんなに甘くなかった。

野球に向き合う姿勢というものは周りの人は見ているのである。自分に対する信頼・信用がなかったことを初めて
実感した。このときに初めて選手を辞めるどころか部活動をやめようと思った。本当はもっと早く考えるべきだった
のかもしれない。そうしたら違う世界も見れたかもしれない。けど、いまこうして野球部にいる。

自分が野球部にいる・いられるのは下のチームで選手・スタッフとして戦っている大友やいけみつ、松木などの励ましがあったからである。


選手以外の活動に関して、自分の中で印象に残っているのは昨年のライブ配信である。このライブ配信では、
ゼロの段階から作り始めた。方法も機材もどうしたらいいかわからない中多くのメンバーにサポートしてもらい
今までにない配信を見ていただくことができたと自負しているし、SNSを見てみるとお褒めの言葉もいただいた。
やってきた甲斐があったと実感した。この経験をいただいた川村先生はじめ、サポートしてくださったADの方々や、
部員には感謝しています。


あともう少しでこの文章は終わるので我慢してみてほしい。なんならここからの方が大事かもしれない。


先述したが、シニアの同期だった島はプロ野球を引退し大学生活を送っている。そんな彼とコロナが流行る前・島が
大学入学する前に一度飲みに行ったのだが、その際彼が言ってたのは「野球で大学に行かなくて良かった」である。
「大学は自由な時間がかなり多いのに、その時間を野球に大部分を注ぎ込まなくて良かった」と。

野球部のみんなはどう思うだろうか。このことはよく考えるべきだと思う。自分の大学生活を本当に野球部の活動に
費やすべきなのか。野球が好きで、続けていきたいならもちろん続けるべきだ。
自分は野球をやっていることが普通であり過ぎてその意味を考えることがなかった。だから今がある。

自分はスタッフミーティングを経てトレーナーとして活動するという選択をした。その責任はしっかり持っておきたい。
Cの選手を少しでも上のチームにあげ、そしてリーグ戦で戦う選手・チームを広報活動やライブ配信で多くの人に
見てもらう。これが今の自分にできることだ。

 

最後に、自分の好きなガンダム作品の一つである「ガンダムUC」より以下のセリフを残して締め括ろうと思う。
「人を想って流す涙は別だ。何があっても泣かないなんてやつを俺は信用しない。」

 

体育専門学群4年 野条大雅

千葉県立佐倉高等学校

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