平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
第12回は濱田朝晃(物理4・山形東)と廣瀬健大(地球4・小山台)です。
是非ご覧ください!
こんにちは。
4年投手コーチの濱田朝晃です。
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援をいただきありがとうございます。
「丸くなるな、星になれ。」
今年の正月に箱根駅伝か何かを見ていて、うわ〜、なんかかっこいい〜。と思っていたら、練習始めの波戸コーチの挨拶でこの言葉が出てきて、うわ〜〜〜!ってなりました。
僕は結構この言葉が好きです。個性を出せ、他の誰でもない自分になれ、というようなメッセージが感じられて、背中を押してくれる気がします。
川村監督がつい最近のミーティングで、
「筑波の野球部にはストーリーがある。」
とおっしゃっていましたが、実は夜空に輝いている一つひとつの星たちにもそれぞれのストーリーがあります。
星は、生まれたときの大きさや質量、周りの環境によって、その後の生き方、死に方に大きな違いが生まれます。
生まれたときの質量が小さく、その後も小さいまま最期を迎える星、一度は大きくなるものの、最期は収縮してしまう星、どんどん成長し、最期は華々しく爆発を起こす星など、星たちにも様々なストーリーがあります。
野球部に当てはめてみると、4年間ずっと苦しい思いをしながらも、努力を続けてきた人、スタッフになると決意をし、裏方として最期を迎える人、リーグで活躍し華々しく最期を迎える人など、部員一人ひとりにそれぞれのストーリーがあると思います。
最期は華々しく活躍して終わるのが、一番気持ちがいいのかもしれませんが、全員がそうはならないということはスポーツの定めです。
ただ、星は例外なく燃え尽きて最期を迎えます。
僕を含め、全員であがいて、もがいて、燃え尽きて最期を迎えたいです。
ただ、野球部としては、最期は華々しく大きな爆発を起こしたいです。
急に星の話をして「何ゆってんだこいつ」と思っている方もいると思いますが、僕は現在、物理学類の宇宙観測研究室に所属しているので、星の話をしたくなってしまいました、すみません。
野球部では珍しい物理学類に所属していますが、筑波大学に進学しようと考えた理由は、JAXAが近くにあって宇宙の勉強ができそう!という単純なもので、高校1年生の頃から筑波大学を志望していました。
そして、大学でも野球を続けようと考えたのは、やはりコロナによって高校3年時の夏の大会が曖昧に終わり、不完全燃焼感が残ったからだと思います。
僕はこれまで、県大会に出られれば嬉しい、県大会で勝てれば嬉しいと言うようなレベルで野球をしたことしかなかったので、大学野球という高いレベルで野球をやってみたいと思い、野球部に入部し今に至ります。
そんなこんなで大学野球が始まりますが、僕の大学野球史上一番調子が良かったのは新人練の頃の1,2回目のブルペンでした。
今でもこの頃の球をもう一度投げたいと思っています。
その後、新人練の調子が良かったことで、初めての6月練でAチームに呼んでもらえました。
しかし、すぐに高校時代の腰痛と股関節痛が再発し、それ以降思うように投げられなくなり、B,Cチームに降格し、それ以降Aチームに関係することも、サマーやオータムのメンバーにも選ばれることができませんでした。
なんだかんだで腰の痛みと同居しながら投げ続け、2年の天王台を迎えました。
天王台中、スタッフになるか選手を続けるかをずっと悩んでいた記憶があります。
この天王台でラスト登板だった活樹が140 km/hを記録したことは鮮明に覚えているのに、その頃僕がどんなピッチングをしていたのかを何も覚えていません。
1個上の投手コーチのあべともさんからどんどん背中が小さくなっていた、と言われるくらい自信をなくし、負のオーラを出していたのだと思います。
そんな中でも、リーグ戦でベンチに入れなくても必死に仲間を応援する先輩方の姿を見て感動し、筑波大学野球部に愛着を感じていました。
何よりもこの野球部が好きだなあと思い、天王台終わりのタイミングで一足先にスタッフになりました。
誰にも相談せずにスタッフになることを決めたので、一井から「ちょっとくらい相談してくれればよかったのに。」と言われ、少し後悔がありますが、とても良い友達を持ったなあと感謝しています。
3年から4年に上がる冬練では、なかなか投手陣が結果を出せないことを受け、これまでの練習とはなにか変えないといけないという考えに至り、本当に鬼のように、見たことないくらい朝から走らせ、夕方も走らせ、ボールをほとんど触らない練習をしました。
僕からも人の心がないような声をかけられ、本当にきつい、つらい、苦しい練習だったと思います。
選手のみんなはよく耐えたと思うし、本当に尊敬しています。
僕は今でも、選手を続けていたらどうなっていただろうと、頭をよぎることはありますが、あんな練習絶対に耐えられなかったし、きつい中でも努力を続けることはできなかったなと思い、この物思いは瞬殺されます。
そのくらい選手のみんなは、努力を続けてきたと思うし、特に4年生はずっと苦しみ続けてきたと思うので、それを信じ、自信を持ってプレーしてください。
自分がスタッフになったのだと最も実感したのは、昨年の関甲信です。
僕が投手コーチとしてベンチに入り、送り出した投手がマウンドで苦しんでいる中、自分がマウンドに行ってこのピンチを切り抜けてやりたいという思いに襲われました。
自分は応援することしかできないのか、という無力感を強く記憶しています。
それ以降、「やるのは選手」ということを心に留めて練習や試合に取り組んできたつもりです。
マウンドで苦しくなっても、その状況を変えられるのは自分一人しかいません。
応援の声はあっても、直接手を加える事ができる人はいません。
そのピンチを切り抜けるために、これまでの苦しい練習に取り組んできたはずです。
ぜひ、自分を信じてすべてをぶつけてきてください。
選手から、「スタッフに回ってくれた人のためにも頑張ろう。」と言ってくれるのをよく聞きますが、それはスタッフのエゴだと思っています。
スタッフになった人は、筑波大野球部に貢献したくて、自分がやりたくてやっているのだと思います。
なので、そこまで背負わずに、自分がやりたいように、のびのびプレーしてほしいです。
ただ、これまで苦しい練習をともにしてきた、侍ウィークで一緒に走り込んだ、出たくてもリーグ戦に出られない選手たちの代表として戦っているということを忘れずに戦ってほしいです。
これまで支え合ってきた、切磋琢磨してきた仲間の思いをダイヤモンドで爆発させてきてください。
長くなってしまいましたが、僕が言いたいのは、
自信を持ってのびのびやってほしい。
最後に4年投手陣へ
隼瀬、このチームになってから多くの負担をかけてしまいました。ごめん。だからこそ、リーグではのびのびやってほしい。魂の奪三振ショーをみせてくれ。
長曽我部、どんな状況でも抑えてくれると信じてる。かっこいいガッツポーズが出ることを期待しています。
一井、チームをピッチングで引っ張ってください、背中で見せろ。まじで頼むぞ。
久米、浩太郎、最後まで熱くいこーぜ。一緒にいっぱい投げまくろーぜ。
活樹、重久、かんゆー、涼太、坂田、いつも刺激をもらっています。今ももっとやらなければと思っています。みんなのおかげで、スタッフになってからもとても楽しかったです。ありがとう。
最期はみんなで星になろう、そして、燃え尽きよう。
P.S. 家族へ、書く場面がなくこうなってしまいました。13年続いた野球生活も一旦区切りを迎えます。いつも応援してくれてありがとう。良いところを見せられなくてごめん。みんなは社会に出るけれども、僕はあと2年(+α?)はお世話になります。これからもよろしく!
理工学群物理学類4年 濱田朝晃
山形県立山形東高等学校
こんにちは。
4年マネージャーの廣瀬健大です。
長いようであっという間な大学野球。
その間、選手とは違った立場も経験したことで色々な人に出会い、様々な経験をすることができました。
4年間の中でも特に思い出深いものを振り返りながら、ラストブログとしたいと思います。
そもそも僕は、大学で野球を続けるつもりはありませんでした。
合格通知書が家に届いて、大学では何をしようか考えた時に、高校最後は満足に野球が出来なかったことが一番の心残りだと思い、もう少しだけ野球をやってみようという気持ちから入部を決めました。
入部当初、小山台出身と言うと先輩方から少し驚かれたことを覚えています。
当時、2個上の先輩に体専で筑波に入学していた人が2人(東東京決勝に行った時のエースと4番)いましたが、野球部をすぐに辞めていました。
どうやらそのせいで小山台からは入部ができないみたいな噂があったようです。
川村先生と面談した時も「小山台の子はすぐ辞めていっちゃうんだよなぁ」なんて事を言っていました。
確かに、直近で入部した4人のうち3人が辞めてますね(笑)。
去年北海道に旅立った、後輩のI君は元気にしているのでしょうか。
僕の4年間での頑張りが、次に来る小山台生にとって少しでもプラスになればいいなと思います。
結局、2年の秋までは選手として活動していましたがあまりいい思い出はありません。
入部当初から怪我続きで、試合に出た覚えはほとんどありません。
何人かのブログで既に挙げられている415事件は僕も被害者のうちの1人です。
平砂4号棟で苦楽を共にした2人は2年秋に部を去っていきました。1人は気付いたらSNSでバズってました。
楽しそうで良かったです。
そんな選手生活を過ごしたことで、スタッフになる事はすんなり受け入れられました。
というか元々、大学のマネージャーに憧れていたので、スタッフミーティングという文化は僕にとっては都合が良いものでした。
こんな事言うとまた怒られるかもしれません。
廣瀬とスタッフミーティングは混ぜるなキケンなので。
坂田と塩にはこの場を借りて再び謝罪しておきたいと思います。
ブログ〆切の朝で眠いから、何言ってるか分からなかったらごめんなさい。
そして2年の冬からマネージャー人生が始まります。
ここからの2年間は一転、マジで楽しかったです。
昨日の大聖も書いていたように、僕らの代3人は今までの代とは毛色が違いました。
怒られて凹むとかはありません。
基本的に3人ともナメてます。
でも意外と仕事はできます。
後輩使いは荒いけど、胸に熱いものを秘めている主務。僕が自由に色んなとこに行けたのも、チームには彼が着いていたからです。
絶対に定時出勤(遅刻含む)・定時退社する会計担当。彼のおかげでマネージャーは少しホワイトな環境になりました。
殺伐とした空気だった去年のマネ室に笑いをもたらしてくれたのは、いつもこの2人でした。
2年間ありがとう。
個人的な活動内容としては、連盟委員としての仕事がほとんどです。
リーグ戦の時は朝から晩まで会場に閉じ込められていますが、楽しいので大して苦じゃありません。
宿泊があるので、夜はよく飲みに行きます。
かんゆうと新しい店を開拓するのが大半ですが、稀にゲストが来ます。
立場上、誰かは言わないでおきますが。
この秋でもう最後になるので、ゲストを呼ぶ回は増やしたいと思ってます。
対戦おねしゃす。
連マネでの思い出でいうと、直属の先輩である轡水さんを挙げない訳にはいきません。
おもろい人です。
リーグ戦のときは金曜と日曜の夜に、あの水色で小さな轡水車に乗って、会場とつくばを行き来しました。
何度、首都高で死にかけたことでしょうか。
おかげで助手席力はかなり上がったし、今なら苦手だったジェットコースターも平然と乗れる気がします。
あと、たくさん飯を奢ってもらいました。
秋は平塚の時に来てくれるみたいなので会えるのが楽しみです。
そんなこんなで4年になり、仕事量と責任が増しました。
最初の大仕事はスプリングリーグの統括。
第1回大会という事で、エグいくらいやる事がありましたが、何をしたか話し出したらとんでもない文量になるのでやめときます。
でも、この経験は人生を大きく変えるものになったし、サマー・オータムも含めて、多くの人と関わる事ができました。
あとは全日本関係。
全日本選手権と大学日本代表合宿に行きました。
トップレベルの選手たちを間近で観ることが出来たし、選手権では東京ドーム、さらには神宮で決勝戦の公式記録を書けたことは良い思い出です。
知り合いでも出場していない限り野球はあまり観ないのですが、おかげで知ってる人が増えたので観るようになりました。
他にも部外に出て仕事をすることが多かったので、チームに帯同することはあまりなく、何をしているのか分からない人、なんて思ってる部員もいたかもしれません。
学年ミーティングや全体集合なんかは、僕がどっか行ってる時に開催される事が多いです。ここまで参加できないと逆に恋しいまであります。
チーム愛がないマネージャー陣、なんて言われてるとか言われてないとか噂を耳にしますが、この場を借りて否定させていただきます。
言葉に出すのが照れくさいだけです。
たぶん大聖も。
今野は、、、知りません。
このチームが勝てることを信じているので、他大学のマネージャーと秋リーグの順位の話になった時は、脊髄反射で「うちが優勝するよ」と答えています。
もう後には引けなくなりました。
選手のみんな、必ず勝ってください。
14年間の集大成。
優勝で締めたいし、神宮まで行きたい。
本当は本部から見守ることしか出来ないけれど、この秋だけは、仕事を山下に全部押し付けてできるだけスタンドに向かいます。
何としても勝ってほしい。
最後に両親へ
大学でも野球を続けると言った時は猛反対されました。なんとか納得してもらって、4年間続けてきて、本当に良かったと思っています。
グラウンドに立つ姿は見せられないけど、最後のシーズン見届けて欲しいです。
今までありがとう。
あと2年学生する事になるけど、これからもよろしく。
生命環境学群地球学類4年 廣瀬健大
東京都立小山台高等学校
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