4月に16年使ってたPCがお釈迦になってから、ホームページの再築に頭を悩ませ、結果、プロに依頼することを決心してようやく完成。
HTMLが何なのかすら解らず、ホームページ制作王とかいうソフトで作っていたから、センスもへったくれもなかったが、やっぱり他人に依頼して正解、すっきりした。
「ならフォーク村」の存在意義はいったい何なのだろうか?と考えながらも、7年続けてきた事実に驚き、簡単に辞めるべきでもないと気づく。
仲間の一人がこう言ってくれた・・・「きっと俺もながたさんも、損得勘定なしで行動してしまうのは、それで喜んでくれる顔が見たいからでしょうね。」
そう言われて納得したのもあって、今後、この「ならフォーク村」をもっと仲間のお役にたてるサークルにしたいとも思った。
基本、俺にはやっぱりサービス業でお客さんとのふれあいを通じて、自然と養われてきた「サービス精神」が宿ってるみたいだ。
2か月前、数年背負っていたリュックを降ろすことが出来た。
35歳で脱サラを夢見て梅田の「喫茶学校」へ通い、そこで知り合った講師の誘いでとあるネットワークビジネスにひっかかってしまい、夢どころか大きな借金を作ってしまった。
絶対にそんな話には乗らない自信があったのに、K製鋼ラグビー部元キャプテンやら、有名女子マラソンランナーなんかが一緒にこのビジネスをやりましょう!ときたわけだから
脱サラ開業資金を目的に、まんまとひっかかってしまったのだ。
その後、再びサラリーマンに戻るが、借金は数年で雪だるま式に増え続け、朝刊配達を始めて1年後、本業の営業車で玉突き事故を起し、その会社も退職することになった。
苦しかった・・・本当に辛かった。 過去に6年間、朝刊を配った経験があったが、それは学生時代・・・大人になってからの睡眠時間3・4時間が1年以上続くのは辛かった。
そして妻に数年隠し続けていた借金だったが、悩みに悩んだ結果、自分の罪をさらけ出すことに決め、司法書士との相談の結果、法的処理を行った。
その後の俺は、自分で自分を罵り続けるようになり、転職もなかなか決まらず、送った履歴書は30通を越え、心はどんどん蝕まれて行った。
家にいるのが辛くて、ある日、奈良の興福寺の「阿修羅像」を見に行った後、何十キロも徒歩で歩いて帰ったことがあった。
途中、疲れ切った足で電車に乗り込み、最寄り駅のホームについたとき、目の前に車椅子を押しながら歩く姿・・・阪口夫妻だった。
「夕涼みに来ただけや~」・・・そんな馬鹿なことはない・・・閉店間際のドーナツショップでコーヒーをご馳走になりながら、何を語ったのか思い出せないが、ふたりの笑顔は忘れはしない。
それから間もなく、短期間の派遣アルバイトが決まった。
ギターもCDコレクションも機材もすべて売り払い、「音楽なんかしてる場合じゃない」と言い聞かせ、アルバイトに行く途中、一本の電話が鳴った。
「兄貴・・・歌うことはやめたらあかんって・・・兄貴らしくないって・・・」
竹本信幸・・・彼の言葉は救ってくれた・・・電話を切った後、自転車を漕ぎながら号泣きしていた。
その後、タイミングよく、そっさんが一緒にライブに出ようと誘ってくれた時に、ギターがないだろうとJAGARDを譲ってくれた。
弾きこむうちに鳴り出したギターを、フォーク村コンサートの楽屋で「お!よく鳴ってますやん。帰っておいで・・・」と彼は言ってたが、これはもう俺のものだ。
5年前、とある人脈を通じて現在の「おそうじ会社」に就職出来た。 週休二日制だとか、年に二回の賞与だとかが当たり前だったD社時代とはまったく逆転した職場ではあるが、
自分で何も出来ない、情けない50歳前の男を雇ってもらった恩を簡単には裏切れない。
これまで自分が作った「ならフォーク村」をはじめ、音楽仲間とのふれあいは、何よりも大きな治療薬となった事は事実だ。 ここには書いていなくても、たくさんの仲間の笑顔や
言葉にどれだけ救われたことだろう・・・忙しく過ぎ去る日常の中で、忘れてはいけないことだから、いま改めてこうしてブログに書いてみた。
いつも みんな・・・ありがとうね。
HTMLが何なのかすら解らず、ホームページ制作王とかいうソフトで作っていたから、センスもへったくれもなかったが、やっぱり他人に依頼して正解、すっきりした。
「ならフォーク村」の存在意義はいったい何なのだろうか?と考えながらも、7年続けてきた事実に驚き、簡単に辞めるべきでもないと気づく。
仲間の一人がこう言ってくれた・・・「きっと俺もながたさんも、損得勘定なしで行動してしまうのは、それで喜んでくれる顔が見たいからでしょうね。」
そう言われて納得したのもあって、今後、この「ならフォーク村」をもっと仲間のお役にたてるサークルにしたいとも思った。
基本、俺にはやっぱりサービス業でお客さんとのふれあいを通じて、自然と養われてきた「サービス精神」が宿ってるみたいだ。
2か月前、数年背負っていたリュックを降ろすことが出来た。
35歳で脱サラを夢見て梅田の「喫茶学校」へ通い、そこで知り合った講師の誘いでとあるネットワークビジネスにひっかかってしまい、夢どころか大きな借金を作ってしまった。
絶対にそんな話には乗らない自信があったのに、K製鋼ラグビー部元キャプテンやら、有名女子マラソンランナーなんかが一緒にこのビジネスをやりましょう!ときたわけだから
脱サラ開業資金を目的に、まんまとひっかかってしまったのだ。
その後、再びサラリーマンに戻るが、借金は数年で雪だるま式に増え続け、朝刊配達を始めて1年後、本業の営業車で玉突き事故を起し、その会社も退職することになった。
苦しかった・・・本当に辛かった。 過去に6年間、朝刊を配った経験があったが、それは学生時代・・・大人になってからの睡眠時間3・4時間が1年以上続くのは辛かった。
そして妻に数年隠し続けていた借金だったが、悩みに悩んだ結果、自分の罪をさらけ出すことに決め、司法書士との相談の結果、法的処理を行った。
その後の俺は、自分で自分を罵り続けるようになり、転職もなかなか決まらず、送った履歴書は30通を越え、心はどんどん蝕まれて行った。
家にいるのが辛くて、ある日、奈良の興福寺の「阿修羅像」を見に行った後、何十キロも徒歩で歩いて帰ったことがあった。
途中、疲れ切った足で電車に乗り込み、最寄り駅のホームについたとき、目の前に車椅子を押しながら歩く姿・・・阪口夫妻だった。
「夕涼みに来ただけや~」・・・そんな馬鹿なことはない・・・閉店間際のドーナツショップでコーヒーをご馳走になりながら、何を語ったのか思い出せないが、ふたりの笑顔は忘れはしない。
それから間もなく、短期間の派遣アルバイトが決まった。
ギターもCDコレクションも機材もすべて売り払い、「音楽なんかしてる場合じゃない」と言い聞かせ、アルバイトに行く途中、一本の電話が鳴った。
「兄貴・・・歌うことはやめたらあかんって・・・兄貴らしくないって・・・」
竹本信幸・・・彼の言葉は救ってくれた・・・電話を切った後、自転車を漕ぎながら号泣きしていた。
その後、タイミングよく、そっさんが一緒にライブに出ようと誘ってくれた時に、ギターがないだろうとJAGARDを譲ってくれた。
弾きこむうちに鳴り出したギターを、フォーク村コンサートの楽屋で「お!よく鳴ってますやん。帰っておいで・・・」と彼は言ってたが、これはもう俺のものだ。
5年前、とある人脈を通じて現在の「おそうじ会社」に就職出来た。 週休二日制だとか、年に二回の賞与だとかが当たり前だったD社時代とはまったく逆転した職場ではあるが、
自分で何も出来ない、情けない50歳前の男を雇ってもらった恩を簡単には裏切れない。
これまで自分が作った「ならフォーク村」をはじめ、音楽仲間とのふれあいは、何よりも大きな治療薬となった事は事実だ。 ここには書いていなくても、たくさんの仲間の笑顔や
言葉にどれだけ救われたことだろう・・・忙しく過ぎ去る日常の中で、忘れてはいけないことだから、いま改めてこうしてブログに書いてみた。
いつも みんな・・・ありがとうね。