岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

佐藤佐太郎私論

2013年03月28日 23時59分59秒 | 茂吉:佐太郎総論
佐藤佐太郎は斎藤茂吉と同じ明治時代に生まれながらも、独自の作風に達した。理由は様々あろうが、大きく分けて二つの事を指摘しなければならないだろう。

1、成育歴:

 斎藤茂吉は、安定した自作農の家に生まれた。そして養子に行った先が開業医だった。つまりは当時のエリートの家に養子に行ったのである。学歴もまた、それに相応しく、帝国大学出身である。


 佐藤佐太郎の成育歴は、斎藤茂吉ほど明確ではない。だが現在分かるだけの資料によれば、宮城の自作農でありながら、何らかの事情で土地を手放したらしい。生まれてから、転居を繰り返し、幾度目かに茨城県に定住した。しかし佐太郎の周辺から親類縁者に関する資料がない。おそらく、没落した自作農で故郷を離れたと考えられる。(これを「悲しき移住者」と今西幹一は言う。)学歴も小学校(現在の中学校)卒である。上京してから、文学教習所に通ったが、神経衰弱のため帰省している。

2、時代背景:

 斎藤茂吉は、日清・日露戦争の時代に思春期を送った。幼少のときに、村の和尚から「日本外史」を学び、中学校の漢文の授業では、諳んじていた。「日本外史」は頼山陽の著述で、尊王攘夷論者が好んで読んだ著作である。つまり広義の「明治維新」の終末期に生まれ、精神的には幕末維新の志士と共通するものがある。(これは近刊の歌書で明らかにする。)

 佐藤佐太郎は、「大正デモクラシー」の時代に青春時代を送った。「大正デモクラシー」は歴史用語で、「政治や文化の民主主義的傾向」を指す。佐太郎は同世代の歌人らと「新風十人」に名を連ねるが、その十人が十人とも、戦争協力には距離感を持っていた。

 さらに付け加えるなら、佐藤佐太郎は斎藤茂吉の歌論と実作を深化させている。(ための短歌の否定、より情感を深める、失敗作は歌集には収録しないなど。)その意味で、遺歌集の『黄月』は志満夫人の意向が強く働いた、佐太郎らしからぬ歌集だ。


3、作風:

 佐藤佐太郎は、事実と真実とは違うと考えフィクションを許容した。その点、アララギの「事実信仰」(岡井隆による)とは、明確に異なっている。また暗示、象徴による表現も多く、「象徴的技法を駆使した写実歌」(篠弘)と言われる。目に見えないものを表現し、音楽性の高い作品を残した。いわば「写実派らしからぬ写実歌」なのである。

 以上の事は、近刊の「斎藤茂吉と佐藤佐太郎」で明らかにしてある。




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