岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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書評『定年』(佐倉東雄歌集):現代短歌社 刊

2014年03月06日 23時59分59秒 | 書評(文学)
『定年』 現代短歌社 刊 佐倉東雄(さくらあずまお)著


 歌集『定年』は佐倉東雄氏の第三歌集である。この歌集を恵贈されたとき、正直言って職場での繰り事が多いと思った。これは表題からの連想である。

 しかし実際に読んでみると、職場詠、心理詠、家族詠ともの、すぐれた作品が多く脱帽した。

 先ず職場詠


 ・公僕はさびしきものぞ定型の言動にして固を失へり・

 ・定年を境に勤めを持たざれば紛れなき吾と日々向き合へり・

 ・残業を終へて小暗き居酒屋にしたたかに酔ふひとり来たりて・

 ・たはやすく従属するは知恵ならん組織の中の務むる人ら・

 これらの作品群は職場での個別具体的なものが見事に捨象されて、詩へと昇華している。一人の人間の生き様(いきよう)も表現されている。

 ・逡巡がもたらす苦痛を鎮めんと珈琲を喫む夜半の机に・

 ・からだ重くこころ思ければ晴天と言へど余白のごとき一日・

 ・選択を迫られしとき損得の思ひなければ決断はやし・

 なにを「逡巡」したのか、なぜ「からだとこころが重いのか」、何の「選択」を迫られたのか。一切説明がない。読者への連想の余地を残しつつ、暗示にとどめられている。短歌は「一人称の文学」「暗示の文学」とも言われるが、それらが佐倉氏独自の視点で作品化されている。

 また広く題材がとられているのも特徴の一つだ。作者の目は職場のみに限定されず、家族や社会へも向けられる。時おり「運河」誌上に紹介される氏の旧作には、「神輿を担ぐ」という、気風のいい作品があるが、血脈であろうか、その気質は御次男が継がれているようだ。

 ・神輿担ぐ支度しをれば余所に住む弐男も担ぐと急遽来たりぬ・

 ・われに似て神輿好きなる弐男なり揉み合ふ中にゆがむ顔みゆ・

 ・屋号にて呼び来たる店の次々と閉ぢて旧道のさびれてゆけり・

 また境涯詠にも見るべきものが多かった。

 ・病室に身を横たへて十日間春の疾風(はやち)をいくたびも聞く・

 ・体重のいくばく減りたる原因を癌の浸潤と知るよしもなく・

 これらは、愚痴ではない。自己凝視であり、詠嘆である。読者に不快感を与えない。

 この表現の幅が、着実な自然詠の表現力に支えられていることも見落とせない。目に見えるものを確かに捉え詠めるからこそ、表現の幅も、個性も出て来るのだ。

 ・川波の逆巻くままに冬海に注ぎてゐたり午後出でくれば・

 ・冬近き山ふところに竹叢のくもりにふれて沈痛のさま・

 ・薄明の湾を出でゆく漁船あり灯す灯りの音なくゆれて・

 ・三鉢の藤の花房それぞれに色をたがへて重からず咲く・

 純粋短歌「東雄風」の完成を喜びたい。




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