岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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書評:『鯨の祖先』(武富純一歌集):ながらみ書房刊

2014年10月27日 23時59分59秒 | 書評(文学)
『鯨の祖先』(武富純一歌集) ながらみ書房刊

 6年ほど前だったろうか。僕が作者の武富純一と初めて会ったのは。

 その時の彼は、「革命児」であり、「反逆者」だった。曰く「表現者でブログもホームページを持っていない人間は、ネット上の『ホームレス』と言われます。」「ネット歌人と蔑まれたこともありましたが、このネット歌人が、10年後には、歌壇を大きく変えるでしょう。そのとき結社の選者の先生方はさぞ慌てることでしょう」「我々は幕末の『ええじゃないか』なんです。『ええじゃないか』が幕府を倒したように、大きな変化を作りますよ。」と意気軒昂だった。

 その「革命児」が第一歌集を出した。この歌集には、「独特の視点、独特のユーモア、方言の導入による世界の構築、社会への厳しい視点」という特徴がある。

 先ず、「独特の視点」。

・水底に錆びし空き缶ゆらめいてかつて満ちたる甘きコーヒー

・チリチリと自転車の音冴えわたる深夜無人の商店街に

・今月のこんちくしょうのありったけまとめて海に捨てにゆくのだ

・海原に迷いを捨てにきたはずが新たな迷いを釣ってしまいぬ

 ここには、何やら孤独感の漂う抒情世界がある。この「革命児」は案外と、孤独で寂しがり屋なのだろう。その情感を、衒うことなく表現している。



 次に「独特のユーモア」。


・アルミ缶潰してみせてスチール缶にぎらせ示す父の怪力

・去年まで並んで釣って笑ってた娘が我を突然捨てる

・子の締めるペットボトルの栓きつくなり始めたり冷茶を注ぐ

・野宿してヒッチハイクをした歳を子は越えてゆく涼しき部屋で

・科学誌に鯨の祖先は河馬とあり我が空想は真実となる

 ここには、親子関係、作者の人柄が、ユーモアたっぷりに表現されている。このユーモアは跋文の中で、抜文で伊藤一彦が書いているように、この歌集の「面白さ」だろう。



 それから、「方言の導入」。

・「まぁええか」呟くほどにまたひとつ失うものが増えてゆきたり

・方角が判らぬ時の知恵言えば娘は返す「聞けばエエやん」

・「入れてんか」半歩詰めては一人増ゆ梅田地下街立ち呑み串屋

・たそがれの電車の響きは繰り返す「なに言うてねん、なに言うてねん」

 ここに挙げた作品には、関西弁の詠みこみが効果を挙げている。口語文脈の文体とマッチして、独特の世界を構築している。この効果は計算されたものと言うより、作者の資質から来るものだろう。こういう表現は珍しい。(河野裕子がいくつか残してはいるが。)


最後に「社会への厳しい視線」。


・百歳を越えし老人と年間の自殺者数と三万を越ゆ


 しかし難点もある。この歌集には各種短歌大会での入選作や新聞歌壇の入選作が多く収録されている。これは作者本人にも直接言ったことなのだが、「入選作」が秀作とは限らない。こういう作品は、大会や、新聞歌壇の選者の嗜好が色濃くでる。この歌集の収録歌が、或る時は「加藤治郎的」「穂村弘的」「河野裕子的「社会派的」なのはそこに原因がある。

 それでは「武富純一的」なものとは、一体どこにあるのか。これが肝心なのだが歌集からはそれが窺えない。作者が、これから問うてゆく必要があるだろう。
 つまり、作者の独自性がまだ、ハッキリとは確立していないのだ。こう考えると、入選狙い、選者の好みに合わせて狙って作った作品とも思えてくる。

 また、これは大きな問題だが、ナンセンスギャグに近い言葉遊びの作品も多い。このブログの記事にも書いたが、言葉遊びは文学的価値がない。これらの作品には衒いが見える。

 「第一歌集は必死」「第二歌集は夢中」「第三歌集で、その人の味が出る」と言われる。「革命児」の今後に注目したい。

 作者は言葉の使い方が、天才的にうまい。巧みに言葉をあやつる術を心得ている。今後の活躍を願っての、妄言である。ご容赦願いたい。





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