抒情詩の条件(斎藤茂吉と佐藤佐太郎の歌論を参考に)
先ず、斎藤茂吉と佐藤佐太郎とが、どう考えていたかを確認しておこう。
「短歌の形式は『詠嘆』の形式である。抒情詩である。西洋詩学の言葉を借りていへば、『リイド』と見るべきものである。されば短歌は話すべきものといふよりは歌ふべき性質のものである。これは真淵や宣長や景樹の説と一致する。そして言語の表象的要素と音楽的要素、・・・が混然一体として融合し、一首を透して作者の心持がし染々と味はれる底のものでなければならぬ。」
(齋藤茂吉「童馬漫梧」10)
「短歌は抒情詩である、抒情詩は端的にいえば詩である。短歌の純粋性を追尋するのは、短歌の特殊性を強調するのではなくて、短歌の詩としての盛るべき内容を考えようとする。」
「感情に意味を感ずるということは、感情を対象として、それに主観が働くこと、あるいは対象が主観に働くことであるが、これはつまり、感情の昇華であり、飛躍・転生である。」
「昇華、転生のない感情がそのまま言葉に移行する時、それは単なる抒情に過ぎない。」
(佐藤佐太郎「純粋短歌論」)
単なる感想文ではなく、また事実の説明ともちがって、詩とは何かという議論となろう。韻律(音楽性)、主題、抒情の凝縮、無駄な言葉の排除などが、抒情詩となるための条件だろう。
主題と言えば、内容の意味性、リアリティと取られる場合がある。しかし作品の主題はそれだけではない。超現実派の西脇順三郎、後期象徴派の吉田一穂。彼らの作品にも主題はある。言葉とそのリズムによる、美的世界の創造である。その主題を表現すべく、擬人法、喩、暗示と象徴と、様々な修辞法が使われる。
現代詩人は何と言っているか。
「今日の詩人に与えられた最も重要な課題は、自らの内部と外部をいかにして調節してゆくかということにあります。この調整の方法如何によって、さまざまな現代詩がうまれてくるのではないかと思います。」(鮎川信夫)
「いま現代詩の世界には、生なまな不協和音が目立つようになりました。詩を書くことはこの世界に対する異議申し立てのところもありますから、私は不協和音に目くじらをたてているわけではないのです。・・・詩を書くことは、言葉で自分だけの世界を再構築することですが、あまりに自分だけですと一人よがりに陥ってしまいます。」(高橋順子)
短歌は一人称の文学と言われる。その点、現代詩との違いはあろう。だが、作品に主題があるというのは、短歌と現代詩の共通項だといえるだろう。
僕は「詩人の聲」のプロジェクトに参加しているが、詩人と歌人とが、ほぼ同じことを言っているのに、しばしば驚かされる。短歌を定型の抒情詩と認識するとき、僕は、歌人の言葉を詩人の言葉で検証する。詩人と歌人の双方が異口同音に言っている場合には、その言葉に普遍性があるからだろう。