このブログで「< 赤光 >の時代は日本の近代文学のルネッサンスだった」とかいとがあったが、出典を確認した。塚本邦雄著「茂吉秀歌・赤光・百首」の巻頭の「解題」だった。そこから短歌関係のおもなものを拾ってみると、次のようになる。
・1901年(明治34年):与謝野晶子「みだれ髪」
・1903年(明治36年):佐佐木信綱「思草」
・1909年(明治42年):北原白秋「邪宗門」
・1910年(明治43年):吉井勇「酒ほがひ」・石川啄木「一握の砂」
・1911年(明治44年):北原白秋「思ひ出」・若山牧水「路上」
・1911年(明治45年):石川啄木「悲しき玩具」
・1912年(大正2年) :斎藤茂吉「赤光」・北原白秋「桐の花」
つまりこの「ルネッサンス期」を先ず彩ったのは与謝野晶子らの浪漫派だったのだ。さらに驚くのは斎藤茂吉の「赤光」が世に出たのは石川啄木の死後だった。
(ちなみに「赤光」の収録歌のうち最もはやいのは、1905年< 明治38年 >作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」23ページ)
文学史では「短歌では浪漫主義がまず大勢となり、写実派の隆盛はそのあとだった」と一通りの知識はあっても、こう並べると改めて驚く。まず石川啄木は斎藤茂吉に先行する時期の歌人だったことをおさえておこうと思う。
しかし作品を読むと啄木のほうが新しそうな錯覚に陥る。理由ははっきりしている。啄木の作品が口語脈で言葉が平易だからである。そこでこういう評価が生じる。
「多少とも文学をかじった人に< 好きな歌人は? >ときかれて、< 石川啄木 >と答えると、軽く笑われるのがせきのやまである。・・・(これには)< 文学をよくわからぬ奴 >という同情とともに、< 通俗 >という蔑視がこめられている・・・」(渡辺淳一)
これにつづけて渡辺淳一は啄木の魅力を語る。つまり平易さ=平俗ではないと。
啄木の作品が平易な言葉で表現されているのは事実だ。たとえば岩波文庫「啄木歌集」から抄出すると、
1・東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる・(「一握の砂」)
2・いのちなき砂のかなしさ/よさらさらと/握れば指のあひだより落つ・(「同」)
という具合で線の細さを感じる作品があるかと思うと、次のような作品もある。
3・赤紙の表紙擦れし/国禁の/書を行李の底にさがす日・(「一握の砂」)
4・やや遠きものに思ひし/テロリストの悲しき心もー/近づく日のあり。・(「悲しき玩具」)
「国禁の書」とはマルクス主義関係の文献であろうし、「テロリスト」は大逆事件の幸徳秋水らのことである。(大逆事件が死刑24名をだすほどの事件でなかったことはすでに歴史学者が論証済みであり、幸徳らはテロリストではなかったのだが啄木の作品は作品としてそのままとりあげる。)社会主義歌人という評価はこのあたりから来る。
そして大逆事件のあと社会主義や労働運動は「冬の時代」にはいる。啄木はその時期に「時代閉塞の現状」という評論を書いている。(これは没後発見され、発表された。)
散文で言えば、自然主義へ近づいてもよさそうなくらいだ。見方によっては「思想詠」のさきがけと言えなくもない。
先に記事にしたが、明治期には写実主義、浪漫主義、自然主義など多彩な文革思潮がはいってきた日本は、ある種の「思想・文化的混乱期」にあったとも言える。
そう考えてくると、石川啄木はそういう時代の重さのようなものを背負い、それと格闘したひとりだったと言えまいか。「現代詩読本」1983年7月1日刊「石川啄木」で、岡井隆・塚本邦雄・寺山修司の3人がかなり真剣に論考を書いているのも、偶然ではあるまい。3人の前衛歌人もまた時代を背負い、それへの問いを発信し続けたという意味では「啄木的」なのではなかったか?
【参考文献・飛鳥井雅道著「幸徳秋水」、西尾陽太郎著「幸徳秋水」、伊藤整責任編集「日本の名著・幸徳秋水」、由井正臣著「田中正造」】