先ずは岡井隆監修「岩波現代短歌辞典」から抜粋。
「岡井隆:歌人。名古屋に生まれる。父弘は『アララギ』歌人、斎藤茂吉の弟子。・・・51年『未来』が創刊され、中心的存在として編集に携わる。・・・」
こういった文字通り「辞書的」なことは横へ置いて、僕の体験的なことを書きたいと思う。(以前ほかの記事に書いたが、岡井隆については土屋文明に師事とも近藤芳美に師事とも書いてない。「『先生』と呼べるのは土屋文明だけ」と、岡井隆著「僕の交友録」にあるが、「師事」とは言わない。)
僕は今パソコンの前に坐っているのだが、ここは書斎ではなくダイニングキッチンの隅だ。こんな事を書くと、わが家の間取りが分かってしまうが、6畳と4.5畳の部屋は書棚と荷物で一杯だ。そこで「台所の隅」にパソコンを置くはめになったのだが、そのパソコンの周囲に本が横積みになっている。
僕の出した二冊の歌集「夜の林檎」「オリオンの剣」のほか、佐藤佐太郎の著作、「斎藤茂吉全集」のうち数巻、「運河」「星座」のバックナンバー1年分。「子規歌集」「土屋文明歌集」「尾崎左永子歌集・正・続」など。なぜか「論語」「聖書」「資本論・第1巻・a」(「聖書」と「資本論」は世界の二大ベストセラー)。原発関連の書物数冊、「日本史年表」そのほか辞書数種類。
そしてひときわ目立つのは岡井隆の著作だ。「現代短歌入門」のほかとりあえず6冊ある。とりあえずというのは、書棚にはまだ数冊あるからだ。
なぜそんなに岡井隆の著作が多いかと言うと、作歌を始めたころ最初に読んだ入門書が「現代短歌入門」だったのがきっかけ。それで気に入ってしまったのだ。
気に入った理由は、岡井の書く文に説得力があり、短歌について深く考えるきっかけをあたえられたからだ。短歌は理屈で作るものではない。しかし言葉ひとつ選ぶにも、何故その言葉を使うのかという裏付けがいる。
岡井隆自身の言葉でいえば、
「短歌は、長い詩ではないから、一語が一首の生命となることが多い。その一語を生かすためだけに、一首があることも多い」(岡井隆著「短歌の世界」)
から、ここはどうしてこの言葉にしたのかと問われて、誰にでもわかり易く説明できれば、その言葉の選択が間違っていなかったと言える。
そういう事を考える時(つまり理論的裏付けを持つ時)、岡井隆の著作に啓発されることが多い。
では岡井隆の歌集は?薄いのが二冊あるだけだ。「斎藤茂吉全集」「佐藤佐太郎集」は全巻揃い、尾崎左永子歌集も「さるびあ街」から「椿くれなゐ」まで全て、尾崎佐永子著「現代短歌入門」もあるのに。
それは理論では共鳴出来るものが多いのに、岡井隆の実作は僕の「波長とあわない」のだ。機会があれば、茂吉・佐太郎・尾崎左永子の歌集を読む。
これが矛盾しないのだから不思議だ。僕の頭のなかで決して混線はしない。むしろ茂吉と佐太郎の歌論が岡井隆と塚本邦雄の著作で、茂吉を立体的に理解出来るのだ。茂吉や佐太郎の書き残したことを「信じる」のではなく、「理解し、自分の言葉で説明できるまで、咀嚼できる」のだ。
だから歌会でも短歌教室でも僕の話が「話がわかり易い」と言われることが多い。これが僕の、茂吉・佐太郎理解の独創性かと思う。
最後に岡井隆から受けた影響のエピソードをひとつ。岡井隆「僕の交友録」が刊行される前、「 NHK 歌壇」に連載されていた時に若い時の回想があった。岡井隆がこう言われたというのだ。(他の本かも知れないが。)
「戦争と平和を短歌に詠むのなら、クラウゼヴッツの『戦争論』は読んでいるんだろうね。」
確か岡井隆はその時読んでいなくて恥をかいたとか。
それを読んで僕は早速、古書店に走った。(これは言葉のあや)新刊では高いと思い、古書店をまわった。そして文庫本全3巻を買った。ところが忙しくて読む時間がない。そのうちに僕が病気療養にはいってしまい、読書の時間に制約ができてしまった。だから相変わらず書棚に眠っている。
いつかは読みたいとは思っている。だが思う。岡井隆は、斎藤茂吉と佐藤佐太郎の作品と著作をていねいに読んでいる歌人のひとりではないか。もちろん茂吉の弟子筋の歌人とは読む角度はやや違う。
岡井隆の斎藤茂吉関係の著作をあげると次のようになる。
「茂吉の歌 私記」「茂吉の歌、夢あるいはつゆじも抄」「遥かなる斎藤茂吉」「斎藤茂吉 人と作品」「茂吉の万葉」「斎藤茂吉と中野重治」「「茂吉の短歌を読む」「斎藤茂吉 その迷宮に遊ぶ」「茂吉と現代」「『赤光』の誕生」「歌集『ともしび』とその背景」「鷗外・茂吉・杢太郎」(岡井隆著「私の戦後短歌史」の巻末『著作一覧』による)
さきほど「弟子筋とは角度が違う」と言ったが、こういうのが貴重なのだと僕は思っている。
そして岡井隆は「斎藤茂吉を『作歌にあたっての導きの杖』とする」とたびたび言う。国文学者との視点も違い、実作者の立場だ。だから実戦的なのだ。僕が岡井隆の著作にひかれる原因はこの辺にあるのかと思う。