安部総理の出現は何か危険なシグナルを灯した。松江市では「はだしのゲン」が、小中学校の図書室での閲覧に制限がかかった。「行動保守」といわれるグループの活動も活発化している。
つまり「右翼的潮流」が元気になっているのだ。
ツイッターなどを見ても、こういう事への危惧が多く呟かれている。「ネット右翼」などと言う動きも活発化している。
無論、表現の自由があるのだから、「思想の表白」は自由だ。しかし「ネット右翼」「行動保守」の動きは、それに逆行している。
例えば、脱原発の市民運動のリーダーの自宅の界隈で騒ぐ。日本の戦争責任を明らかにした歴史学者を恫喝する。こんなことが起こり始めている。
「まるで戦前のようだ。15年戦争の前も、こういう雰囲気だった。」と、ある人が言う。「何となく過ごしているうちに、戦争に突入していたのだ。」と別の人が言う。
このブログで、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を批判したときに、僕は「反日」のレッテルを張られた。こういう行動は、「表現の自由」に逆行する。しかも始末の悪い事に、彼らに理屈は通じない。感覚的に嫌悪、憎悪している。
これは或る意味、恐ろしいことだ。論争が出来ないのだから。「身の危険」を感じる人もいる。
こういう事を見るにつけ、聞くにつけ、僕は、1950年代後半の「三井三池争議」を思いだす。ピケを張る労働者が、右翼に刺殺された。当時の社会党の浅沼稲二郎委員長が壇上で刺殺された。また1980年代後半には、東京都知事選の革新統一候補の、大田薫が、選挙の最終日にパチンコで撃たれ大けがをした。
こういう行動は、民主主義に反する。だが、一層心配なのは、これらの動きを加速しているのが、自民党の「憲法改正案」だ。巨大与党が、陰にいるので、事は深刻だ。
こういう動きの特徴は、朝鮮、中国に対する民族差別、反対派への恫喝だ。こういうことを通じて、人間の意見発表を委縮させる。これには断固、反対の立場を明確にしておきたい。付け加えると、警戒心は必要だが、恐怖する必要はない。ツイッター、ブログ、mixiで、こういう傾向に警鐘を鳴らす人が多いからだ。
加藤周一の言葉を再度引用しよう。
「怖くても少数派になる勇気がなければだめだ。」(「戦後世代の戦争責任」)
昨日の記事の、詩人、アーサー・ビナードが言った。「戦後の支配者、吉田茂と岸信介の孫が総理、副総理をしているのだから。」
短歌は戦前、戦中、ナショナリズムの昂揚、戦意高揚の「危険な凶器」となった。この過ちを繰り返してはならないだろう。