現在ほど科学者の社会的役割が問われている時代は無かったように思う。
高度経済成長期は産業の拡大再生産の為には、科学技術の進歩は欠くことの出来ないものであった。
だが右肩上がりに経済が成長するのは過去の話。人口の増加と同じく次第に減少していくのも想定される様になった。経済効率でけでは捉え難い時代となったのである。
エネルギー問題もしかり。ライフスタイルも変わるだろうし、経済の拡大の為だけにはエネルギーは使われなくなるだろう。
原発は経済の高度な成長を前提に建設され始めた。1960年代の半ばの事であった。だが福島第一原子力発電所の原子力災害で事態は一変した。
科学技術の発展が必ずしも社会に貢献するとは限らないことが白日の下に曝されたのである。科学技術研究の意義が問われる様になったのだ。
これからの科学技術研究は原子力や放射線の研究の分野でいえば、原発の廃炉・解体・放射性廃棄物の最終処分の技術革新・確立が重要な研究となろう。
電力会社の関係者の中には「科学技術の発展が原発の安全性を高め、放射性廃棄物の処分の問題も解決する」と考えている人達もいる。だが福島の原子力災害は未曽有の、そして取り返しのつかない結果をもたらした。これまでとは認識を改めねばならないだろう。
「科学の進歩が問題を解決する」とは、かの水俣病の時に産業の分野での拡大再生産を優先して言われたことであった。この理論と言うか理屈は如何なる結果をもたらしたかは、言わずもがなであろう。
日本国内の原発がゼロになるか残るか予断は許さないが、これから世界各国で原発の見直しが始まるように思う。少なくとも、これ以上の原発推進は無いだろう。原子力の研究者のなかには「これからの科学の進歩を考えに入れていない」と原発の将来が科学の進歩にかかっているように言う。しかし働く人達を含めて、生身の人間の命を危険に晒してまで原発を推進する価値などあるのだろうか。
また存続される原発も40年も経てば廃炉への作業が始まる。その時に必要なのは、原発の廃炉の技術であり、作業員が安全に作業出来る技術である。研究者の育成も欠かせない。
それから代替エネルギーの開発と実用化、ヨーロッパのような「国境を越えた大送電網」の構築もまた欠かせない。
原発は「放射性廃棄物の処分」を先送りして商業運転が始められた。廃炉の技術も未完成だ。乱暴な話だが、これが実情である。これから研究すべき事は数え切れないほどある。
何よりも人間あっての科学である。これからはこの方向で科学研究がなされるだろう。それが、これからの科学技術のありかたとなろう。
僕は、角川「短歌」の2011年9月号と2012年7月号に、それぞれ7首ずつ新作を発表した。いずれも主題は福島の原子力災害のことである。短歌を文学と考え、文学が人間を描く事だとするなら、原発の問題は避けては通れない、いや、もっと切実な問題である筈だ。
この問題についての「msnニュース」(インターネット検索大手のbing)は、明らかな誤りであると言わざるを得ない。原子力の平和利用が「」つきのシロモノであったのは、今度の原子力災害と、その後の検証との中で解明されたものの一つである。
(手元の文献によれば、かつて「msnニュース」に登場した研究者は「原子力村」の一員だったとされる。)