岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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飯粒の焦げる歌:斎藤茂吉の短歌

2011年11月01日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・燠(おき)のうへにわれの棄てたる飯(いい)つぶよりけむりは出でて黒く焼けゆく・

「暁紅」所収。1935年昭和10年作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」189ページ。

 これを読んだときに「『燠』ってわかるか」と言った人がいた。キャンプの時に「かまど」で料理を何度もしたので、僕にはわかったが、電磁調理機などが普及し、火鉢さえ使わない時代が続くと、理解されなくなる一首だろう。「これを歌会に出して、どう評価されるかと思うと首を捻りたくなる」などと見当違いの批評をする人間が出てくるとも限らない。

 言うまでもなく、燠は木炭や薪の火が消えかかって、火種だけが赤く明るく炎を出さない状態で残っているもの。そこに自分の棄てた「飯(いい)つぶ」から煙が立って黒く焼けてゆくという。直接表現はされていないが、おそらく火鉢にあたりながら飯(めし)を喰い、落ちた一粒を火鉢の中に捨てたというおももちだろう。あるいは土間の「かまど」か「へっつい」かも知れないが、そんな事はどうでもいい。

 なにかこう一人孤独に食事する侘しさが伝わって来る一首だ。「飯」という感じを、「いい」と読んだのは語感の問題だろう。「めし粒」では台無し。子供相手に食事している体になってしまう。

 一首の意味内容は「燠のうえに棄てた『めし粒』からけむりがたって黒くなっていく」というただそれだけだが、一首の背景に作者の言い知れぬ孤独感が漂う。時間・場所・主観の直接的表現はすべて捨象されている。

 あるいは何か忸怩たる思いかも知れぬ。「黒く焼けてていく」からそのような感じもする。それゆえ「燠」「棄てためし粒」「煙」「黒く焼ける」これらすべてが、作者の「心の形」をあらわす「象徴」なのだ。これを全て「即物的」に読んでは面白くも何ともない。

 茂吉の自註。

「これなんかも瑣末主義の代表として軽蔑せられるであらうが、作者自身は此一首を得て嬉しいのであった、子規の『竹の里歌』を読んで作歌に志してから30年を経てはじめて飯粒の焼けるのを歌にしようと思ったからである。」(「作歌40年」)

 佐太郎、長沢一作の評価を順にあげる。

「瑣事を歌にして瑣事に終わっているのでは、それは只事歌(ただごとうた)にすぎない。何か寓意のようなものがあるのか。しかし作者は写生をすればそれが象徴になるという信条を貫いた歌人である。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)

「とくに自註の後半は重要なことを暗示していよう。こういう日常些細なことの中に状態のもつ詩としての意味を見たこと。それは即ち『写生』による新しい発見であったといってよい。この小事実も現実の相である。このときのまにたちまち黒くなってゆく米粒のさまも厳しく容赦ない事実である。」(長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」)

 これ以上の説明はもはや必要なかろう。(岡井隆著「茂吉の短歌を読む」と塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」ではとりあげられていない。「写実歌」そのもので解説の必要なしということだろうか。)





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