戦後短歌を語る上で欠かせないのが近藤芳美。終戦後、「アララギ」の若い歌人たちを集めて「未来」を創刊。(1951年・昭和26年)。初めは「アララギ内」の同人誌だったそうだが、そのあたりの事情を岡井隆が語っている。
関連部分を書きだしてみよう。(岡井隆著「私の戦後短歌史」より)
「とにかく僕たちはやっぱり短歌および教養の上から言っても、近藤さんのほうが(柴生田稔より)おもしろい。柴生田さんは、文学の話はいいが、音楽の話や絵の話や、もう少し広い思想的な話になると近藤さんの方がおもしろい。」
「マルクス主義に関してもきちんと読んでいる。だからトロツキーの話もできる。ただあの人は本当に傍観者で、絶対に踏み込まないですね。」
なんのためにマルクス主義を読んだのか、「トロツキーの話もできる」とあるからは、近藤もトロツキーの著作も読んでいたのだろう。(トロツキーの著作「わが生涯」などは違う書名で戦前から出版されている。)そういう書籍を読んだのは、戦後社会・戦後短歌のあり方を模索していからだろう。
岡井隆のこの話がいつ頃のものか「私の戦後短歌史」には明記されていないが、1951年「未来」創刊。1953年「未来歌集」刊行、スターリン死去。1956年フルシチョフによるスターリン批判、と続いた時期である。岡井隆は1960年ごろまでは「アララギ」に出詠していたというから、おそらくこの期間の話だろう。
戦時中、歌壇は他の文芸と同様に「戦意高揚」の一翼を担った、加えて、短歌はサブカルチャーだという「第二芸術論」もあった。この困難な時期に近藤芳美は「戦後短歌のあり方」を考えた。岡井隆ら近藤のまわりに集まった「ヤングアララギアン」も同様だったことだろう。
そういう時代に近藤芳美は作歌活動を続ける。朝鮮戦争の勃発もあった。そういう状況下での近藤のひたむきさ、苦悩は著書「歌い来し方」(「近藤芳美集・第5巻」)を読めば伝わって来る。
だがその作品群には一つの特徴がある。近藤流リアリズムの作品は、あまりにも当時の社会現状に近すぎて、同時代の人間でなければ読みとれない作品があるのだ。
例を挙げよう。
・いつの間に夜の省線にはられたる軍のガリ版を青年が剥ぐ・「埃吹く街」
・講座捨て党に行く老いし教授一人小さき一日の記事となるのみ・「静かなる意思」
・電気椅子に孤独のいのち終るときユダヤ人ゆゑユダヤの祈り・「冬の銀河」
・火の色に行き行く旗らまなうらに夜を寝むひとりの脱走の兵・「黒豹」
一首目。「省線」が国鉄(現、JR )なのは分かるが、僕らの世代には下の句が分からない。これはポツダム宣言受諾に反対し、徹底抗戦を唱えた軍のガリ版刷りのビラを青年が剥いでおり、乗客は無表情で見ていたと「歌い来し方」に書いてあるが、それを読まねば意味が不明だ。
二首目。僕はこれをレッドパージの歌かと思った。だが「静かなる意思」は、共産党が35議席に躍進する選挙速報をラジオで聞いている連作で終るから、年代が合わない。調べてみたら、終戦直後に作家・演劇人・学者などの文化人が、共産党に集団入党したことを指すという。これはこの一首からは読みとれない。
三首目。ユダヤ人のローゼンバーグ夫妻が、「原子力スパイ」容疑で死刑執行されたことを指す。「原子力の平和利用」が「核兵器の開発生産」に直結するのは今日では、明らかだから、「原子力スパイ」イコール「軍事スパイ」である。加えて夫妻は最後まで無罪を主張したから、歴史の重い事実には違いない。だがこの一首だけではそれが伝わって来ない。
四首目。これはベトナム戦争の脱走兵のことを詠ったものだ。だがこれも一首からは読みとれない。
だがこれらは弱点とは言い切れない。「第二芸術論」や「岡井隆と吉本隆明との論争」で、「短歌に思想は盛り込めるか」が問題になった時、岡井隆は「連作での表現は可能だ」と答えた。「思想をいかに盛り込むか」というのは、戦後短歌の直面した課題の一つだった。
だから近藤は歌集の収録作の小見出し連作などを駆使して、思想を盛り込むことを目指したのだ。
「短歌はそれ一首で独立したものとして創作され、鑑賞できるものでなければならない。」
という佐藤佐太郎の行き方とは明らかに違うが、近藤の試みたものは、戦後短歌がくぐり抜けなければならない関門であり、連作・詞書を作品と一体のものとして表現する表現法もありうる。
そういう意味で近藤の作品は特徴的であり、近藤短歌の特質のひとつだと思う。それゆえ近藤芳美の短歌を理解するには、「歌い来し方」(「近藤芳美集・第5巻」が必読だと僕が思うのである。
「斎藤茂吉亡きあとの歌壇を支えた」
という意味の功績は大きい。は宮柊二や窪田章一郎も入れて「終戦直後の短歌のリアリズム的傾向」とでも言えようか。前衛短歌前夜の話である。