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奥野健男著「日本文学史」近代から現代へ:書評

2013年08月28日 23時59分59秒 | 書評(文学)
奥野健男著「日本文学史」ー近代から現代へー(中公新書)


 近代の文学は、教科書的には、「政治小説」「翻訳文学」「戯作文学」の三つから、著述されることが多い。だが1968年(明治元年)に、文学がドラスティックに変わった訳ではない。近世(江戸時代)の延長にあったはずだ。

 本書は、そういう観点で書かれている。一部を紹介しよう。

 「(二葉亭)四迷、(森)鴎外、などの文学を後ろから引っぱっていたもの、彼らが渾身の力をこめてたたかっていたものは、(為永)春水を今なおベスト・セラーにする江戸時代の巨大な伝統、つまり西洋近代文学とはまったく異質な、日本の伝統全体だったのです。」

 明治維新は、確かに近代化に道を開いた。だが、政治の時期区分と、文化の時期区分は違うはずである。そこに本書の特徴の一つがある。では近代文学の出発点はどこにあるか。奥野は、坪内逍遥、二葉亭四迷を挙げているが、そこに日本の近代文学の注目点があるという。

 「日本の近代文学は、政治権力を握った支配体制の推進者によって、またその同調者によって、上からの国策として奨励され、はぐくまれたものではなく、またその同調者、適応者の中に生まれたものではないのです。そういう支配体制による被害者、疎外者、つまり脱落した余計者の中から生まれたのです。・・・自己本来の生き方と、現実社会との違和を真剣に考える人間が文学を書いたことで、維新以後わずか20年しかたっていないのに、日本は本格的な近代文学を生む幸福を得たのです。」

 では、その近代文学の成立はいつか。本書によれば「明治30年代末から明治40年代はじめにかけて」とする。短歌でいえば、斎藤茂吉の「赤光」、北原白秋の「桐の花」の時代にあたる。

 近代文学の崩壊期はいつか。本書によれば、大正末年であるとする。日本が戦争「15年戦争」に突入していく時代だ。短歌もこの時代、戦意高揚のプロパガンダとなって、文学性を失った時代だ。この辺から、現代文学への模索が始まる。短歌で言えば、プロレタリア短歌、などの時代にあたる。戦争は、近代短歌、近代文学にとどめを刺したことになる。

 現代文学は、「戦後の復興」の時期だ。戦前からの大家が、大作を発表するとともに、「戦後派文学」「第三の新人」が現れる。これは短歌で言えば、「戦後リアリズム短歌」「前衛短歌」の時代にあたる。

 こうして見ると、「近現代文学史」は「近現代短歌史」と符合する。短歌は時代から独立しているのではなく、時代の産物なのだ。

 この近代と現代を分かつ戦争について、本書はこういう。

 「多くの文学者たちは一面では民族主義に突き動かされ、愛国主義者になったのですが、一面軍部官僚の文学統制に反発し、自己の文学の意義をあらためて自覚し守ろうとする、一見矛盾した心理状態にいたったのです。」ここは、短歌と根本的に違う。短歌は、こぞって戦意高揚のプロパガンダを引き受けた。にも関わらず、奥野は「戦時下」の文学をこう総括する。

 「一部の文学者の中には醜く当局に便乗し、密告によって仲間を売ったり、また狂信的な皇国主義的、ファッショ的言動をなす者もいましたが、ほとんどの文学者の姿勢は消極的ではありましたが、戦争期最低限に主体的な自己と反逆的な文学の伝統を守ったということができます。しかし生命を賭して軍国主義や戦争反対の主張を積極的に貫き通した文学者がいなかったという事実は、日本の文学者の弱さとも、日本という民族や社会の宿命的性格とも考えられますが、僕らにとって深刻な反省をうながさずにいません。」

 さあ、こうした明確な総括を、歌壇はやってきたのだろうか。僕が「歌壇の戦後は終わっていない」と考えるのは、正に、ここにある。





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