事情があってダイエットに取り組んでいる。病院の内科医と栄養士の指導をうけ計画的に。このごろの栄養指導は徹底しているもので、まず自分の健康状態がどうなっているかを詳しく知るところから始まる。そして減量目標も自分で決める。「動機づけ」という。
2005年に胃の全摘手術を受けてから、「病気のデパート」のようになってしまったので、こちらとしては渡りに舟だった。血圧が高いのだが、すでに山のような薬を飲んでいるので、薬なしで直そうということになった。それには体重を減らすしか方法がなかったのだ。
動機づけは理論ずくめだった。なぜ、なぜ、なぜ、の連続。僕も理屈に傾くほうだから、随分質問した。これも、なぜ、なぜ、なぜ、の連続だった。そして電卓を自分で叩かされて、減らすカロリーを計算させられる。患者自身にさせるのがミソのようだ。自分で計算した結果は受け入れるほかはない。これを栄養士がトントンとやっては台無し。実感がないし、どこかで間違えているのではという「疑念」が持ち上がる。
幸い経過は順調で、この3か月弱で10キロ体重を落とした。そうなると一連の計算が信用に足るということになり、続けようという意欲が湧く。とにかく心の底から納得するのが一番重要なようだ。相手任せではこうは行かないだろう。「納得と自発性」が重要なのだろう。
健康に関してはもうひとつ悩みがあった。胃がないので、数種類の栄養素が不足する。善玉コレステロールがなかなか増えないのもそのひとつだった。これは内科医の一言で解決した。
「野菜を多く食べると『善玉』が増えます。『善玉』が増えると、『悪玉』が減ります。そういう仕組みになっているんです。」
何と短く、核心をついた言葉か。正岡子規は「最簡単な文章は最良の文章だ」といったそうだが.医師の言葉も同じ。外科でも『悪玉』のことは問題にされていたのだが、具体的指示はなかった。「餅は餅屋」ということだろう。
それ以来、わが家の冷蔵庫は菜っ葉だらけになった。春菊、小松菜、ホウレンソウ、チンゲン菜。ほかに白菜、キャベツ。茄子、ピーマン、胡瓜、大根、ジャガイモ、人参、玉ねぎ、冷凍アスパラなども常備している。
こう書いて来るとまるで八百屋の体だが、「悪玉」は順調に減り、「善玉」は手術以来初めて正常値に戻った。
野菜の効き目は絶大だ。
1・善玉コレステロールを増やし、悪玉をへらす。
2・カロリーが少ないので減量に役立つ。
3・胃のない人間は腸閉塞を起こしやすいが野菜では起りにくい。
まさに一石二鳥ならぬ「一石三鳥」である。欧米にベジタリアンが多いのには「栄養学的」根拠がある。(宗教的意味もあるが。)
「それが短歌にどう関係があるか」というなかれ。自分で納得し、自ら求めていく自発性。これが一番大切なのだ。茂吉や佐太郎に学ぶとしても、「茂吉・佐太郎がなぜそういう言葉を使ったのか」という「なぜ」という心がまえが求められる。
先日の「角川書店の賀詞交換会」で毎年あう歌人にこう言われた。
「やっと安心して見られるようになりましたね。」
「僕の作品のことですか。」
「いや、体のこと。」
その人は「体型」とは言わなかった。せめてもの優しさか。この言葉喜んでいいのだろうか。うん。素直に喜ぼう。今の状態は作歌にも好影響をもたらすだろうから。(それにしてもダイエットは冬にするものではない。寒くて仕方がない。特に「節電の冬」わが家はエアコンもストーブもなし。部屋のなかでひたすら着ぶくれている。)
・体内に電解質異常もつわれはスポーツドリンク稀釈して飲む・「オリオンの剣」
・漢方の霊薬として屠蘇を飲む術後間のなきこの歳晩に・「同」
・胃のあらば心ゆくまで酒飲みて草の上にて眠らんものを・「剣の滴」
これが短歌による僕の自画像だ。
「短歌による自画像というのは、あくまで散文とは違う方法で構成されているはずです。・・・その意味では、どのような歌であっても、自分を描いているという意味では、内面的な自画像だといえるでしょう。」(岡井隆著「歌を創るこころ」)