岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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正岡子規はなぜ「万葉調」を主張したか

2010年03月29日 23時59分59秒 | 短歌史の考察
アララギの先人たちは万葉集の研究に力を入れてきた。島木赤彦「万葉集の鑑賞と其の批評」・斎藤茂吉「万葉秀歌」「柿本人麻呂」・土屋文明「万葉集」「万葉集入門」・・・・。

 いつのまにか「万葉調」と言えばアララギ系結社の専売特許のようになってしまった。確かに、正岡子規は王朝和歌・旧派和歌を批判し、万葉集を評価した。しかし正岡子規の文体と万葉集のそれとは全く違うし、万葉集の研究と言えば、歌学を代々継いできた佐佐木信綱のほうが専門家だし、佐佐木幸綱も万葉集の研究で著名である。

 実際、僕も佐佐木信綱の「万葉集」(岩波文庫)のほうを、斎藤茂吉の「万葉秀歌」に先立って読んだ。

 よく検討すると、僕の知る限り子規自身は「万葉調」という言葉を使っていない。「歌よみに与ふる書」のなかで万葉集を推奨し、新古今集・旧派和歌を強烈に批判しているだけである。

 ではなぜ万葉集か。「写生」といっても万葉集は叙景歌だけではないし、「生を写す」という意味での「写生」を子規は唱えていない。(生を写す「写生」は斎藤茂吉まで待たなければならない。)

 思うに子規が万葉集を推奨したのは、「新古今調・旧派」への決別宣言ではなかったか。
 「正岡先生は、万葉集の言葉をそのまま引きうつすのでなく、万葉の歌人たちが何故ああいう言葉遣いをしたのか考えよといわれた。」という斎藤茂吉の言葉と、「子規が万葉集を推奨したのは万葉調になったというのではなく新古今調をやめたということである。」という大岡信の言葉が僕は気になっている。
 他方で子規は「磊落がよし」とも述べているから、技巧に捉われ技巧を競うのに終始するのをやめよということではなかったかと思う。

 事実、子規の初期の短歌は新古今調・旧派和歌であった。それがそれまでの「常識」に捉われず、自在に素材を選び新しい用語を採用し始めたのと、旧派の和歌を批判を強めていった時期はほぼ重なる。

 「写生・写実=万葉調」という考えが固定化したのは、子規の存命中ではなかったようだ。子規は「万葉調を唱えた」のではなく、「新古今調・旧派ではない」と言う意味で、「万葉集をとりあげた」のではないかと思うのだ。




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