・宵空にぬきいでて灯るアパートのひとところ空よりも暗き階段・
「群丘」所収。1961年(昭和38年)作。
まず佐太郎の自註から。
「アパートの階段はいつも暗いとは限らないが、消灯されて暗いこともあり、屋上に出る階段などはたいてい暗い。『空より暗き』が私の見たところである。」(佐藤佐太郎著「作歌の足跡-海雲・自註-」)
佐太郎の自註にはないが、「ぬきいでて」が効いている。そこだけ際立って明るいとう意味だが、そこだけ明るいと表現することによって、暗さが際立つ。「にきいでて」は佐太郎の言う虚語だが、これの使い方がまことに上手い。
それと注目点は下の句。「ひとところ空 / よりも暗き階段」の句またがり。言いようのない不安感のようなものが伝わって来る。所謂「必然性のある句またがり」だと言える。
都市詠は佐太郎の表現領域の一つだが、都市生活者の孤独感や不安感の漂うものが多い。すでに記事にしたが、次の作品などもそのうちにはいるだろう。
・階くだり来る人ありてひとところ踊場にさす月に顕はる・(「地表」)
この歌もまた階段だ。冒頭の作品には「アパート」とあるが、木造のものではなく鉄筋コンクリート造りのものだろう。
「逢う魔が時」という言葉があるが、都市でもそういうときはある。夜になれば一層「魔の時」とでもいう感覚におそわれるのもしばしば。そういう独特の感覚を叙景歌だけで表現しているのが特徴だろう。
つまり幻想的な実景を「写」しとるから幻想的な作品が生まれる。想像で作った幻想詩は、よほどでない限り作意に満ちてしまう。笹公人などその「いい例」だが、それは改めて記事にしよう。
岡井隆は次のように言う。
「現代のわたしたちも、物を見て、それを歌の中へうたい込めることによって、この世の生をたしかめているといっていいのかも知れません。」(岡井隆著「歌を創るこころ」)
「目に見えるものを『写』すことは、うまく『写』ことができれば、作者の感情だくでなく、作者の生活の一端や作者の季節感や、その他さまざまの『目に見えないもの』を、間接に『写』すことに、結果として、なるのである。」(岡井隆著「短歌の世界」)