・なにがなし心おそれて居たりけり雨にしめれる畳のうへに・
「ともしび」所収。1925年(大正14年)作。
斎藤茂吉自身による自註は、「作歌四十年」「ともしび・後記」には見られない。全体的に感覚的な歌であり心理詠である。具体的なものは「しめれる畳」だけ、そのせいだろうか。
佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」によれば、
「梅雨の湿気を不安な心理面から感じている。その心理状態の把握は鋭くしかも的確である。梅雨に湿った畳を踏んで、気味の悪いような不安動揺を感じたのが鋭い心理の動きであり、それを端的に< 心おそれて >といったのが微妙である。」
とある。
この場合「微妙」と言った意味は「微妙な心理状態」「微妙なところを捉えている」ということだろうが、反面「心おそれて」と言うのはかなり思い切った表現である。
微妙な心理状態を表現するのに思い切った表現を使う。何だか逆説的な感じだが、出来そうで出来ないことである。
強烈な言葉を言い放つのは比較的容易い。その辺りがこの作品の妙であろう。
にもかかわらず、作者自身が自註や自己評価していないのは、当時の茂吉が目指していた方向や茂吉の資質から、やや距離があったからではないだろうか。
歌集「ともしび」は、火災による病院と自宅の全焼に題材にした作品と「申し分のない叙景歌」(塚本邦雄)が、メインである。とすれば、この作品は「ともしび」の作品群の中心からはずれているということになる。
だから茂吉自身もこの作品のよさを自覚しなかったのだろう。さらに一首の趣は佐藤佐太郎の世界に近い。佐太郎の次の作品との共通性を見出すことは、そう難しくはあるまい。
・炭つげば木の葉けぶりてゐたりけりうら寒くして今日も暮れつる・(「軽風」)
・いはれなく心つつまし路地くれば石炭のけむり壁よりいでて・(「しろたへ」)
・きぞの夜の酔さめをりて形なき不安をいだく冬の一日・(「帰潮」)
ただし佐太郎の方がどこか洗練されているような印象だが、どうだろうか。