北杜夫の第1歌集にして最終歌集の題名は「寂光」。茂吉の「赤光」を意識しているのだろう。あるいは伊藤左千夫の連作「寂びの光」を漢語にしたのかも知れぬ。
斎藤茂吉の文学の面を継いだといわれる茂吉の次男・北杜夫。そういえば岡井隆の父親は斎藤茂吉に師事した歌人。その岡井隆が土屋文明に師事し、のちに近藤芳美のまわりに「アララギ」の若手とともに集まって「未来」を創刊に加わったのは、親への反発からか。
その「寂光」の「はしがき」によれば、北杜夫(=本名・斎藤宗吉)が厄介になっていた親類の家にあった斎藤茂吉の歌集『寒雲』にいたく惹かれ、貰い受けて松本高校にいった。そこの寮にはいったのち「寂光集」という作歌ノートを持っていたと言う。それを30年以上経って歌集にまとめたのだ。その理由は最後に北杜夫に語らせるとして、まずは収録作を年次別に抄出する。
<< 1945年(昭和20年) >>
・赤茶けし焼跡に咲く白小花ひっそりとして虻しのびよる・
・昏れゆけばくろき森辺にさびしくも鳴きかはしゐるひぐらしあはれ・
・梓川の水音聞きつつ垢じみし畳のうへに黙してゐたり・
・終電車の出で行く音を聞きながら目覚めてゐたりくらやみの中・
・力尽き呆けたるごとわれを乗せて青田のなかを汽車は走れり・
<< 1946年(昭和21年) >>
・疾風(はやち)ふく夜ふけゆきてひっそりと赤き表紙の本閉じにけり・
・ものなべて静まりゆきてガラス戸の白き蛾ひとつ動かずなりぬ・
・うれひのみわが身にせまるこの宵を蛍の光流れけるかも・
・ひぐらしを聞くべくなりてなにがなし悲しきものの来らむとする・
・このゆふべ遠き野末にほろほろとあがる煙を見つつ帰りき・
・焼跡に霜降りにけり悲しかるちまたのひびきよどみてゐたり・
<< 1947年(昭和22年) >>
・冬枯のくぬぎ林の色しづみ音こそなけれ入日赤きに・
・入日赤くここの川原を照らしつつ草食む馬が首を振りたり・
・ひとりごとを云いつつちまた行くときに冷々として雨ふりゐたり・
・夜半の風とどろきすぐるたまゆらにさしせまりくる断想ひとつ・
・東京湾のなかほどにして黒き波に梅干しの種一つ吐きすつ・
・岩かげに身を投げだせり山のうへにゆふぐれんとして霧たちわたる・
・しみじみと手には冷たきただ赤き林檎がぶりと噛みにけるかも・
さすが1946年(昭和21年)には佳詠が多い。ただこの抄出したものにも見られる傾向は、「結句が付け足しになっているもの」「古風すぎるもの(けり・かも・かるかも・の多用」「調べがこんがらかっているもの」「詰めが甘く印象が曖昧になっているもの」「口語が突出し、俗語的になっているもの」「必然性のない字余り字足らずがある」そして、用語や作風が「赤光」に極似していることだ。
「はしがき」の後半が面白い。
「高校2年の終りごろ、ついに山形に疎開していた父に、歌稿を送ってみた。すると、その何首かは○印がつけられており、「父の赤光時代の歌に似ている。勉強の余暇に、少しずつ作ってみるがよい」という意の返事がきた。私は有頂天となり、三度ほど歌稿を送ったと思うが、3年生となると、父は大学受験の妨げとなるから、歌などもうやめろ、と命令する手紙を寄こした。」
そのおりの作品が次のものだろう。
・父より大馬鹿者と来書ありさもあらばあれ常のごとくに布団にもぐる・
ひどく長く破調もはなはだしい。4・7・5・7・7・7短歌の形をはみ出している。おそらく息子である北杜夫も相当あつくなったのだろう。しかし次のような父を思う作品もある。
・反発の心はあれどまなうらの熱くなりたり老いたまふ父に・
・論戦の文章心にたのしかり父に似てあらそひを好むにやあらむ・
二首目がこれまた破調。5・7・5・10・8。何やら北杜夫は初めから散文向きだったような気がする。
北杜夫自身はこう言う。
「つまり、私は歌人失格、詩人もまた失格、そしてつまらぬ小説をかくようになり、今日にいたっている。」(歌集はしがき)
これが北杜夫の特有のユーモア、または謙遜であることは言うまでもない。収録歌より「はしがき」のほうが面白い。「はしがき」そのものがエッセイで、短歌はその「刺身のツマ」。やはり北杜夫は散文の方に才能があったのだろう。