・わがめぐり虚しくなりて吹く風の音あきらかに峡田(かひだ)を渡る・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」119ページ。
語意から。「峡田(かひだ)」(=山と山との間の狭いところ、谷にある水田。谷の湧水の近くにあれば、谷戸田・やとだ。)
佐太郎の自註。
「昭和36年夏、軽井沢千が滝というところに滞在していたが、ある日風音を聞いて数首の歌を作った。台風余波と思われる風で、秋のまえぶれのような爽やかさと寂しさとが感じられる。こういう風は昔の人も注意して歌に詠んでいるから、歌材としては新しくないが、私は事実について観察し、実感に即して言葉をやっている。
『移りゆく松風の音聞きをればやうやくにしてまた強くなる』
『めのまへに落葉松の枝ゆれをりて遠くの風の音がきこゆる』
『風のおとながるるごとく近づくとおもふいとまに終りたるらし』。
連作だが順序もなく、一首一首は独立している。内容を少くして、言葉をのびのびとつづけるのが、短歌の表現だが、いつもそうゆくとかぎらない。このときは何のとどこおりもなく言葉がつづいた。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
かなり長い自註だが、あとに示す一首とあわせて5首の連作。「風の音」に耳を澄ました聴覚を活かした作品群である。
従来の「写実派」と違うのは見えるものを詠むだけではなく、五感を張りめぐらせ、主観をとりまぜて詠うのが佐太郎の「写実」である。五感を効かすときには神経を緊張させる。その緊張が声調・言葉のつながりの「表面張力」のような強さになる。
連作には次の一首もある。
・穂に出でし峡田しづけく遠風の聞こゆるいとま聞こえぬいとま・
下の句が対句になっており、修辞の工夫が窺える。
おそらく作者は全神経で音を聞いているのだろう。おそらく一人で。と来れば「孤独」「一人」という言葉がなくとも、それが伝わってくる。ここまで来れば志賀直哉の短編小説のようだ。
岡井隆が、
「(佐太郎の歌には)物語性がある」(「星座52号)と述べたのはこのことである。
大事件でなくともいい。人間の営みが「物語」なのだから。それに大事件はそんなにあるものではない。
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