岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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虚しさの歌:佐藤佐太郎の短歌

2011年11月08日 23時59分59秒 | 佐藤佐太郎の短歌を読む
・わがめぐり虚しくなりて吹く風の音あきらかに峡田(かひだ)を渡る・

「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」119ページ。

 語意から。「峡田(かひだ)」(=山と山との間の狭いところ、谷にある水田。谷の湧水の近くにあれば、谷戸田・やとだ。)

 佐太郎の自註。

「昭和36年夏、軽井沢千が滝というところに滞在していたが、ある日風音を聞いて数首の歌を作った。台風余波と思われる風で、秋のまえぶれのような爽やかさと寂しさとが感じられる。こういう風は昔の人も注意して歌に詠んでいるから、歌材としては新しくないが、私は事実について観察し、実感に即して言葉をやっている。

 『移りゆく松風の音聞きをればやうやくにしてまた強くなる』

 『めのまへに落葉松の枝ゆれをりて遠くの風の音がきこゆる』

 『風のおとながるるごとく近づくとおもふいとまに終りたるらし』。

 連作だが順序もなく、一首一首は独立している。内容を少くして、言葉をのびのびとつづけるのが、短歌の表現だが、いつもそうゆくとかぎらない。このときは何のとどこおりもなく言葉がつづいた。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)

 かなり長い自註だが、あとに示す一首とあわせて5首の連作。「風の音」に耳を澄ました聴覚を活かした作品群である。

 従来の「写実派」と違うのは見えるものを詠むだけではなく、五感を張りめぐらせ、主観をとりまぜて詠うのが佐太郎の「写実」である。五感を効かすときには神経を緊張させる。その緊張が声調・言葉のつながりの「表面張力」のような強さになる。

 連作には次の一首もある。

・穂に出でし峡田しづけく遠風の聞こゆるいとま聞こえぬいとま・

 下の句が対句になっており、修辞の工夫が窺える。

 おそらく作者は全神経で音を聞いているのだろう。おそらく一人で。と来れば「孤独」「一人」という言葉がなくとも、それが伝わってくる。ここまで来れば志賀直哉の短編小説のようだ。

 岡井隆が、

「(佐太郎の歌には)物語性がある」(「星座52号)と述べたのはこのことである。

 大事件でなくともいい。人間の営みが「物語」なのだから。それに大事件はそんなにあるものではない。





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