小学校・中学校・高校・大学と4曲の校歌を、わが校歌として歌ってきた。それぞれ特徴があって趣もあるのだが、人前で歌うのは少し気恥ずかしい。理由は、歌詞のなかに校名と地名が入っているからだ。地名や校名といった固有名詞は、ご本人には大変懐かしいものだが、赤の他人にとっては、はっきり言ってどうでもいいもの。理屈をこねれば、固有名詞には普遍性がないのだ。
その中で、僕にとって高校の校歌だけはかなり印象が違う。歌詞のなかに地名も校名も入っていないのだ。はじめの二小節は情景描写だ。
緑の丘の 連なる空に
雲白く 浮かび輝く
次の二小節が心情の吐露である。
思い豊かに 呼びかけ歌え
はるかな夢を 憧れを
7音を基調に、2か所だけ5音。7・5調で何とも優雅だ。今は勿論、頑丈な堤防の外側だが、多摩川の古い自然堤防の内側の旧河川敷にある学校だから、まことに相応しいといえる。(そういえばやけに埃っぽかった。)
ここまでだと誰も校歌とは思わない。
「いい歌ですねえ。何の歌です?」などと言われたりする。
校歌らしいところといえばコーダと呼ばれるサビの部分だけ。しかしそれでも、固有名詞は出てこない。
誇れよ いざともに われらが母校
最後が7音で終っているところが何ともいえない味があるが、高校名はついに出ないで曲は終わる。これではどこの学校か分からない。格調があり、かつ大変スマートだ。
小学校の校歌は、後半に町の名前と学校名が出てきて、「われらが母校」とダメを押す。
中学校の校歌は、冒頭に地名がご丁寧にふたつもでてくる。「わが学び舎」というフレーズと、後半には「富士山」まででてくる。
大学の校歌たるや、最後に校名を7回も連呼する。さきほどの高校の校歌とは全く対照的にコッテリしている。
同窓会などでは、校歌を歌う。酒がはいっているせいか、コッテリした大学の校歌のほうが盛り上がる。スマートな高校の校歌では少し物足りない。料理にも酒にあうものとそうでないものがある、などと言っては作詞者に失礼だろうか。
短歌を詠む場合も固有名詞の扱いが難しい。効果のある場合も逆の場合もある。
佐藤佐太郎の短歌は、めったに固有名詞が出てこない。
・夕光のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝を垂る・
京都二条城という詞書がなければ、二条城とは分からない。だから、しだれ柳の輝くさまを見たことのある人には等しく感動が伝わる。固有名詞がないことが効果をあげている。
それに対して、
・冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ・
という作品は寺と滝の名前が二つも出てくる。佐太郎の短歌としては珍しいほうだが、「青岸渡寺」は、サ行の音と二つの濁音・オ段の音が勇壮な語感をだし、「那智の滝」という語と相まって、まことに効果的である。
短歌の批評会で固有名詞が効いているかどうか議論になる。判断はケース・バイ・ケースである。とすると、校名を7回も連呼する大学の校歌も、「忘れ得ぬ」という効果が案外あるのかも知れない。