・あやしみて人はおもふな年老いしショオペンハウエル笛ふきしかど・
「白桃」所収。1934年(昭和9年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」P180
語意:「ショウペンハウエル=ドイツの民間哲学者。カント直系を自認した。厭世観的思想は19世紀ドイツに流行し、ニーチェを介して非合理主義の源流となった。(岩波小事典「哲学」)」「笛=伝記などに笛を吹いたとある。広く知られていないが。」
歌意はよく通る。
「あやしむなよ。年老いたショオペンハウエルはフルートをふいたが。」
問題は三句目以降だろう。様々な議論のもとともなってきた。「作歌40年」にも「白桃・後記」にも自註はない。
そこで一般に「写実」の対極と言われる塚本邦雄の批評を読もう。
「ショウペンハウアーは若年から笛を好んだ。彼は数学よりも哲学よりも、音楽こそ人間に教へるところが多いと考えてゐたやうだ。・・・まこと怪しむのは、世の人の認識不足であらう。・・・極東日本の、気むづかしい哲人と音楽とは、全く次元を違へ類縁を絶ったものと思ひこむ人のことで、ドイツ人なら否西欧の人人は、いささかも怪しみなどすまい。」(塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路まで・百首」
さて佐藤佐太郎は何と読んだか。
「もしかしたら人の見のがすかも知れない瑣事に作者は心をとめて詠嘆している。・・・短歌の形式は単純であるが、短い言葉だからかえって暗示的に響くところがいい。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)
この作品の詩たる所以は佐太郎の言うように「暗示的」な所だと僕は思う。気難しい哲学者が老いて「笛を吹く」のに或る種の不思議さを感じるのもいいし、「厭世主義哲学」と「笛=おそらくフルート」の組み合わせに何かを感じるのもいい。それらすべてが読者に投げかけられている。
そして表現された事実の奥になにか大きなものが潜んでいるように感じられるところ。「言語明快・意味明瞭」でありながら、「連想の広がり」が大きいところに一首の特徴がある。それこそが「象徴」である。
「言語明快・意味不明瞭・連想の広がり難解」の塚本作品との違いがここにある。塚本邦雄は長々と「読み」を述べるが、「笛を吹くのは西欧人にとって不思議でもなんでもない」ことを懸命に説明しているだけだと思える。
塚本邦雄の「茂吉秀歌・全五巻」は大変参考になるものだが、この一首の鑑賞については、僕は首をひねる。
斎藤茂吉の「作歌40年」の自註には作品に関して「わからん」という言葉が幾たびも出てくる。(例えば「赤茄子の歌」)作者自身でさえよくわからない感情が浮かんでくるらしい。「歌を読むのは、読みたいという感情があふれてくるからである。変な気持になるからである。」とも茂吉は言う。自身がそう感じているのだから、読者があれこれ詮索したり、茂吉の真意を決めつけたりするのは、ほとんど意味がないと思うのだが、どうだろう。(こういう感覚と表現は西脇順三郎の詩論と実作の中にかいま見える。)
ちなみに岡井隆はその著書「茂吉の短歌を読む」のなかでこの一首を「難解歌」にはいれていない。