・むらさきの葡萄のたねはとほき世のアナクレオンの咽を塞ぎき・
「寒雲」所収。1938年(昭和13年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」P211。
先ずは語意と読み。「アナクレオン=古代ギリシャの叙情詩人。各地に遊び、恋と酒をうたった。三省堂< 世界史小辞典 >、「咽=のど」。
茂吉の自註。
「アナクレオンは希臘(=ギリシャ)の詩人で、恋愛詩人であったが、食べてゐた葡萄が咽を塞いで死したといはれてゐる。この連想も作者の身に即けば即ち写生である。」(作歌40年」)
「作歌40年」は1944年(昭和19年)の出版で、ギリシャを漢字表記しているなど、敵性語の使用が禁止された戦争末期の時局がありありとわかる。
さて、塚本邦雄の鑑賞。
「およそ茂吉全歌集を通じて、最も典雅で、同時にロマン・ノワール風の乾いた残酷性をも持ち、墓碑銘のように簡潔で冷やかな一首である。・・・もっとも人によって去り嫌ひの生ずるのも当然のことで、例へば< 作歌40年 >にはみづから選び入れて注し、岩波文庫版< 斎藤茂吉歌集 >はさすがに< ぶだう >一連からこの一首のみを採り、そして佐藤佐太郎< 茂吉秀歌 >は、これまたさすがに、この歌を採らなかった。だからこそ名歌と言ってもよい。それほど一首の放つ光の及ぶ範囲、輝きを受けとめる分野は限定され、選ばれてゐる。・・・(茂吉の自註を引用して)・・・これが写生なら二十一代集に見る古歌数万種、これらも悉く< 写生歌 >になるはずだ。」(塚本邦雄「茂吉秀歌・白桃~のぼり路まで・百首」
この塚本邦雄の批評の中心は二つある。
第一。「茂吉は秀歌を自認していたが、岩波文庫の編者:茂吉の三人の弟子では評価が分かれ、佐藤佐太郎は秀歌と認めなかった。」
第二。「これが写生歌というなら、古今和歌集も写生歌だ。」
しかしこの論理展開にはいささか無理がある。
第一の問題。斎藤茂吉は「作歌40年」で自註したものだけを自分の秀作としたのではない。佐太郎も「茂吉秀歌・上下」に収録したものだけを秀歌と認定したのでもない。さらに言えば、佐太郎の「茂吉秀歌」に先立ち出版され、佐太郎からも評価された長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」では採りあげられている。
第二の問題。塚本邦雄は「典雅」かどうかで、「写生歌」であるかどうかを判断している。しかも念頭にあるのは同時代の土屋文明の「写実=リアリズム」という理解らしい。しかし、島木赤彦の写生論では「概念歌」という一節が設けられているように、写生歌=即物的との塚本の判断は誤っているのではないか。「簡潔で冷ややか」、葡萄やアナクレオンが「喩」でないこと(この「喩」や「寓意」のことを茂吉は「からくり」という)で、立派に「斎藤茂吉の< 写生歌 >の範疇に入れられる。
塚本邦雄といえども神ではない。こういった勘違いもあるのだと思えば何やらホットする。
詳しくは、斎藤茂吉「作歌40年」の序文、佐藤佐太郎「茂吉秀歌・上」の序文、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」164ページを参照して頂きたい。
ただこれだけは言える。サンボリズム(象徴主義)を称する塚本邦雄が絶賛するこの作品が斎藤茂吉の「写生」の範疇にはいるのであれば、茂吉の作品・写生論は塚本邦雄のサンボリズム(象徴主義)と極めて近い所に位置するのではないかということだ。斎藤茂吉と塚本邦雄。とかく対極にいると考えられがちな二人が案外近い存在なのではないか。そしてその象徴性は、塚本邦雄とは違う形で佐藤佐太郎に受け継がれている。佐藤佐太郎の作風が「象徴的写実歌」(岡井隆)と呼ばれる原因のひとつはここにあるのだと。
最後に教訓がひとつ。一冊の書物だけで論を展開するのは思わぬ落とし穴に落ちるおそれがあるということ。肝にめいじたい。
歴史にifはないといわれるが、この作品の評価は次のようになるだろう。
正岡子規:「なかなかに面白けれど、少し知識が前に出過ぎ居り候。」
伊藤左千夫:「やはり斎藤は< 理想派・空想派 >だな。」
長塚節:「君は< 写生の歌 >は苦手のようだな。」
島木赤彦:「概念歌であっても簡潔・語気に勢いがあれば、良い歌だ。これが君の< 写生 >なのだろう。」
土屋文明:「茂吉兄には兄の行き方があるから。」