・白雪のながらふる今朝のあかつきに新年(にひとし)きたるよろこびの声・
「つきかげ」
・あたらしき命がもとに白雪のふぶくがなかに年をむかふる・
「白き山」
・しだり尾の尤(かけ)の雄鶏(をどり)が鳴く声の野に遠音して年明けにけり・
「赤光」
・ひむがしの朱(あけ)の八重ぐも斑駒に乗りて来らしも年の若子(わくご)は・
「赤光」
歌意はそう難しくない。一首目は、叙景歌の中に「新年きたる」と詠みこんでいる。二首目、「白雪のふぶく」という叙景と、「年をむかふる」が詠みこまれている。三首目、尤の雄鶏(かけのをどり)とは雄鶏のこと。さしずめ「雄鶏」が、元旦の朝に鳴いている景だろう。四首目、斑駒(ふちごま)は、さまざまな色の毛が混じる馬のこと。「馬の背に乗り新年がやってくる」というほどの意味。
歌調が古風で、「新年」を明示する語句がついている。「赤光」の二首は特にその傾向が強い。
万葉語を駆使しているとも言えよう。この四首は「短歌」(2013年1月号)誌上に紹介されたもの。三首目は、中川佐和子、四首目は、大野道夫がえらんでいる。
その鑑賞文からの抜粋。
「(三首目)茂吉の歌では、東の空の朱に染まっている幾重にもなる雲の中から『斑駒』に乗って新年が来るらしいと、弾んでいる感じである。古調をいかしつついきいきとした様子がいかにも茂吉らしい。」
「(四首目)茂吉作は、万葉調を出そうと言葉を選択している。」
いずれも「新年の儀式歌」に近い。それに対して、佐藤佐太郎の新年の歌は、かなり趣が違う。
・かたちなき時間といえど一年がゆたけきままにわが前にあり・
「開冬」
・あかつきの天(そら)よりわたる日の光あな忝じけな(かたじけな)吾にとどきて・
「地表」
時間の切り取り、空間の切り取りが行われているが、説明がなければ「新年の歌」とは分からない。これを読むと、茂吉に比べ、佐太郎の方が「詩」としての普遍性が高く、表現の限定が進展しているように思う。
茂吉の「儀式歌」が、戦中の「時局詠」の大量生産につながったのは、昨年刊行した「斎藤茂吉と佐藤佐太郎」の中で述べた通りである。