岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「ブナの木通信」(「星座68号より)

2013年12月28日 23時59分59秒 | 作品批評:茂吉と佐太郎の歌論に学んで
「ブナの木通信」(「星座68号より)

 短歌は一人称の文学、とよばれます。自己を凝視するということです。今号はそういう作品に先ず、注目しました。


  (モーツアルトを聞きながらの感慨の歌)

 哀しみの仔細は分かりません。しかし、そこを暗示にとどめたことによって、情感の深い作品となりました。


  (午後の日を受けての感慨の歌)

 この作品も何を断罪したいかが、表現されていません。しかし忸怩たる思いは的確に伝わって来ます。


  (反論を胸におさめての感慨の歌)

 この作品も、反論の内容は書かれていません。短歌はまた暗示の文学とも呼ばれましから、詳しく説明する必要はないのです。それに加えて、この一首は、下の句の比喩に独自性があります。


  (満たされぬものをもって夕餉を作る歌)

  (忘却に心の救いを感じる歌)

 この二首も、何に満たされないか、何を忘却するのかが書かれていません。暗示されているだけ、読者の連想力を引き出す余地を残しています。ただ事実を書いただけでは詩にならない、と言われるのはこのことでしょう。


 一方、叙景歌にも特徴のあるものがありました。

  (枯れおちた桜葉の中に残る蜻蛉の翅の歌)

 「枯れおちしさくらば」「蜻蛉の翅」。何だか、生のあわれをあらわしているようではありませんか。


  (日没の光が埃の当たる歌)

  (午後の庭に揚羽の幻影の揺れる歌)

 目で見たものを詠んでいるのですが、幻想的な景が浮かび上がりました。「写生を突き詰めてゆけば、象徴や幻想にはおのずから至る」と斎藤茂吉が言ったのはこのことでしょう。


 また時代性を感じさせる作品もありました。

  (ほどほどに貧しく不便だったころの思いやりの歌)

 高度成長期にはいる前のことでしょう。過去のことを詠うことによって、現代社会への問いかけともなっています。




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