2013年は多難な年だった。四月には胆石切除の手術を受けた。病気の療養期間も、丸3年になる。年末には「運河賞」辞退ということもあった。
だが悪い事だけではない。箇条書きにしてみよう。
1、「斎藤茂吉と佐藤佐太郎」という評論集を刊行したこと。
これによって僕の歌作の基本姿勢が定まった。僕は第三歌集「剣の滴」の「あとがき」に、次の様に書いた。
「ここで歌論を展開する紙数はないので、詳しくはブログを参照して頂きたい。」
こんなことを書いたのは自分でも忘れてしまったが、歌集をお送りした歌人から指摘されて、思い出した。葉書を頂いたのだが、そこにはこう書いてあった。
「『剣の滴』で予告されていた、歌論がこのようにまとまるのは驚きです。」
「短歌研究」誌でも、新人賞、短歌研究賞、と並んで、評論賞というのがある。漫然と作歌をするのでなく、作歌の「道しるべ」を持つことは必要だ。
2、天童大人プロデュース「詩人の聲」のプロジェクトに参加したこと。
「短歌は定型の現代詩」と思って作歌してきた。しかし正直言って、詩人の知り合いはいなかったし、現代詩がどういう状況にあるのかも分からなかった。プロジェクトに参加して、詩人の知り合いが出来、現代詩の状況も朧ながらわかってきた。何より大きかったのは、「聲に出す」と短歌作品の優劣が、明確になる。
恐ろしいことでもあるが、これで自分の作品を以前より客観的に見られるようになった。(詳しくは新年になって詳しい記事にしたい。)
3、2、とも関係するが、「運河かながわサロン」「運河東京歌会」「星座α歌会」についで、「星座かまくら歌会」に参加しはじめたこと。
「運河」の亡き山内照夫氏は、「若い頃はひと月に4回の歌会に出ていた」と言われた。「星座α」の歌会は、隔月だが、その4回に近づけた。歌会では、自分の作品を他人の目でみてもらう絶好の機会だ。2、と合わせ、こういう機会を持てたことは何にもまさる。
4、僕が講師を務めている「霧が丘短歌会」。ここで会員たちが独自性を出し始めた。教える立場からこんな嬉しい事はない。また、教えることにより、僕自身の鍛錬にもなっている。この会は初めてから10年以上経つ。「継続は力」という事だろう。
5、「星座」の選者になったこと。数多くの作品の生原稿に接することで、僕自身が触発されている。また「星座α」の「参与(選者)」になったときと同様、尾崎左永子主筆から頂いた「選歌注意」という、佐藤佐太郎が、「歩道」の選者たちに送った文書の写しを活用している。これは後々、僕の大きな財産となるだろう。
6、短歌とは少し離れるが、どうやら病気療養から抜け出す道が見え始めた。毎年年賀状を戴く歌人からは「体が資本」と言われたが、文字通りその「資本」が手にいれられそうである。
このように2013年は、収穫の多い年だった。
(なお「斎藤茂吉と佐藤佐太郎」の「短歌」誌上の書評で藤原龍一郎氏が、「短歌人」内部に関する僕の指摘を「邪推」と断定された。これには大いに異論がある。このことに関して、一つの論考を今書いている。いずれどこかで発表することになるだろう。)
