岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

僕の科学論・文明論

2011年09月24日 23時59分59秒 | 政治経済論・メモ
僕の少年時代はすでに電気洗濯機があったから、洗たく板を使ったことがない。洗たく板はすでに僕のおもちゃ箱にはいっていた。使ったことはないが、ただ漠然と「あのデコボコにこすりつけて洗う」と思っていた。

 ところがそれがとんだ間違いであることに最近気づいた。いや気づかされた。或るドラマのシーン。主人公が洗たく板で洗たくしていた。左手で盥を押さえ、右手で洗たく物を板にこすりつけている。

「違う。」

と僕の母が叫んだ。

「どこが?」

「洗たく板は上から両手で押えつける。そして板の上の洗たく物の端を左手で押えながら、右手で布地の汚れた部分を持って、左手で押えた布の上でこするの。」

 なるほど木の板にこすりつけては布地が痛む。そういえば祖父が雑巾を洗う時の手つきがそうだった。布の上に布をこすりつけて洗う。見事な手つきだった。小学生の僕が真似しようと思っても出来なくて、悔しい思いをしたことがある。

 その数日後、ドラマの主人公の洗い方が変わっていた。「布で布をこすっている」のだ。誰かが放送局に電話したのか。

 しかし、洗たく板を使わなくなってから半世紀。当時の人は洗たく機がこのように普及するとは思っていなかっただろう。

 さてそこで話が変わる。時代とともに道具や機械・技術がかわるのは当然として、将来はどうなるのだろうか、病気療養にはいって2年。世間とのかかわりがますます限定されていくとすると、どうなるのだろうか。

 ある日気づいたら、街を歩く人がみな黒い板(携帯端末)をもっていて、鞄をもっているのが僕だけだったりして。「・・・pad 」「・・・phone 」というのはどうも馴染めない。電子書籍?使い方を誰か教えて。なにせ携帯電話さえ機種変更ののち家で眠っているくらい。パソコン歴もほんの3年。


 斎藤茂吉は自分の受け持ちの患者が死んで次のように詠った。

・自殺せる狂者をあかき火に葬(はふ)り人間の世に戦(おのの)きにけり・「赤光」

 また佐藤佐太郎はこう詠んだ。

・遺伝子の組替えをする事きけばかかる進歩にこころをののく・「星宿」


 斎藤茂吉の生きたのは日本の産業革命・電化・戦後復興の時代だから、科学の進歩を信じて疑わなかっただろう。佐藤佐太郎は大正デモクラシー・戦争・戦後復興・高度経済成長・石油危機・バブル経済の時代に生きたから、科学に対する「畏れの念」のようなものが見え隠れする。ともに時代を感じさせる。

 自己凝視とともに、おのれの生きた時代にどう真向かうかも歌人に求められる姿勢だろう。さしずめ僕の場合は次のようになる。

「科学の進歩にこころおののく」「機械文明にこころおののく」。

 さて上の句を何としようか。科学の進歩には原発も核兵器もはいる。例えば「放射性廃棄物の処理」については、「研究の進歩とともに解決策が見つかるだろう」という前提で原子力開発はすすめられてきた。被爆線量と健康に対する害についても、不明または科学者の間に見解の大きな相違を抱えたままだった。福島原発の事故収束も新技術を開発しながら行われている。もともとこのような事故は想定されなかった。

 最近(2011年9月)問題になった「アメリカの人工衛星の落下」も、寿命が尽きたあとのことは想定されていなかった。1999年から2000年に年越しをするときの「2000年問題」も、コンピュータ開発の時点で、「日付は下二桁。技術が進歩すれば解決される。」と問題が先送りされていたのがそもそもの原因だった。

 問題を先送りしながら、科学技術の実用化を優先する。これはおもに科学そのもの以外の要請によるものだそうだが、これが時に危うい問題に発展する。

 これに僕は「おののく」のである。



最新の画像もっと見る