・あかあかと竜飛の海におつる日をおきざりにする如く帰り来・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」118ページ。
佐太郎の自註から。
「北海道の沖に落ちる日だから、< おきざりにする >がいかにも適切だろう。このような甘美な言葉は的確でなければなるまい。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
僕は茂吉と佐太郎の歌論と実作に学びながら作歌するのを信条としているが、こう言う作品に出合うと、考え込んでしまう。「おきざりにする如く」が気になるのだ。佐太郎は「甘美な言葉」というが、僕はむしろ俗臭を感じる。
「俗」と言えば、佐太郎門下では「最大級の作品酷評語」で作者の人格否定のニュアンスさえあったそうだ。「おきざりにする」という表現に僕はそれを感じてしまうのだ。「後ろ髪を曳かれる」はそれ以上に俗調だ。
かと言って、他にどのような表現があるかを考えてみても俄かに思いつかない。「名残の夕日」は?いやもっといけない。
名残を惜しんで帰ってくる時の心情を如何にあらわすか。おそらく佐太郎は苦労したに違いない。
・おきざりにする如く
・後ろ髪をひかれる
・名残の夕日
・背中に感じて
とこう並べると「おきざりにする如く」という表現がベストではないが、ベターではないかと思う。「おきざりにする」という甘美な言葉が、「如く」という「直喩=間接的表現」が「俗臭」を薄めているのだろうか。
写実派では比喩は禁じ手に近かった。それは直接的ではなく遠回しの表現になるという考えからだ。僕も「ごとき」「如く」をなるべく使わないようにしているが、「遠回しの表現」が、「俗臭」と距離感を保つ役割を担っているのだろうか。
また「おきざりにする如く」の主観表現は、斎藤茂吉の「銚子の海の歌・暁紅」で示された「客観と主観の一体化」に続くのを思わせる。
だが「陸(くが)果つる・・・」「夏日差す・・・」といった作品と比べるとやはり弱い。
多作だった茂吉に失敗作が多かったように、厳選主義の佐太郎にもこういう作品があるのかと思えば、少し気が楽になる。
なお夕日を詠った茂吉の作品としては次のものが挙げられよう。
・あしびきの山のはざまの西開き遠くれなゐに夕焼くる見ゆ・「赤光」
・おのずからうら枯るる野に鳥落ちて啼かざりしかも入日(いりひ)赤きに・「赤光」
「赤光」の作品はすべて東京で詠われているものだが、基本にあるのは山形県の一寒村の農民の心情である。このことについては、岡井隆著「茂吉の短歌を読む」、西郷信綱著「斎藤茂吉」に詳しい。