古めかしい言い方だが、「国難の時期」である。東日本大震災・原子力災害・放射性物質の拡散(どうやらチェルノブイリの事故をうわまわる被害のようだ)。斎藤茂吉は戦時中に時局詠を詠んでその責任を問われたが、その戦争に例えられるくらいのことが、現在も進行中である。
そのひとつ。原発の是非に関わりの深い問題、各電力会社の株主総会が6月末に相次いで開かれた。そこは議決の場だから、議決のありように触れねばなるまい。
議決といえば多数決、選挙が念頭をかすめる。「一票の重さの格差」という言葉。主に国政選挙で有権者の一票が他の選挙区と比べて非常に軽い状態を言う。たとえば A 選挙区では5万票の獲得で当選するのに、 B 選挙区では15万票獲得しなければ当選しない。
こういう不公平を表すのだが、先の例で言えば、 A 選挙区と B 選挙区の「一票の重さ」は3:1となる。 B 選挙区の方が3倍の得票を必要とするので、「一票の価値」が3分の1なのだ。
各地で選挙無効と憲法の「法の下の平等」に反すると裁判が起こされているが、おおむね3;1を上回る格差が「違憲状態」、しかし選挙無効は棄却、国会に議員定数の是正を求めるという判決が多いようだ。そこで国会は選挙制度・定数是正を議論し公職選挙法改正に動く。
個人的には「一票の重さ」が2:1を上回れば「法の下の平等」に反すると思っている。概して都市部の方が「軽く」、地方の方が「重い」という傾向があるが、終戦直後の公職選挙法制定時と比べて、急激に人口の過疎・過密が進み、都市部に人口が集中したことに原因がある。
ところが企業の株主総会の議決は、出資金の多さによって個々の株主の持つ議決数が決まる。例えば1千株の株主が1票とすれば、1万株の株主は10票を持つ。出資金の差は実際にはもっと大きいので、「議長委任」「執行部委任」の委任状をあらかじめ大株主から集めておけば株主提案は大差で否決される。ここまではマスコミ報道などで知られるが、その「大株主」が誰なのかは明らかにされない。
原子力発電推進の立場にたつ電力会社が互いの株を持ち合ったり、原子力発電所建設で利益を上げる、大手電気機械メーカー(日立・東芝・三菱重工などの名があがっているが、それぞれの企業がどの電力会社の株をどれくらい持っているかは明らかになっていない)が大株主だったら、「原子力発電からの撤退」という株主提案は否決されるのが、あらかじめ決まっているようなものだ。
この6月の各電力会社の株主総会では、例外なく「原発からの撤退」の株主提案があり、例外なく「大差で否決」された。
撤退反対が92パーセント、撤退賛成が僅か8パーセントという結果があったが、約60パーセントの人が「原発からの脱却」をいう世論調査から大きくかけ離れた結果に終わる原因はここにある。
こういう仕組みを知らなければ「原発からの脱却」の意見はごく少数だと思いかねない。逆に「大株主」の名が明らかになれば、誰が原発政策から巨大な利益をあげているかがはっきりする。原子力発電は巨大な利益を生むが、「危険と隣り合わせの利益」。しかし利潤追求が第一の私企業にとっては当然なのだろう。(撤退しても「新エネルギー・燃料電池やソーラー発電の更なる効率化と普及」の開発など、これからの成長分野はあると僕は思うのだが。)
海外では原子力発電は、国営企業や公社がになっている国もあると聞く。私企業が全面的に行っている国は日本と・アメリカくらいと聞いた。日本の原子力政策が決まるとき、1955年に通産省の海外調査団の報告書に基づいて、国営方式や公社方式は採用されず、アメリカと同じ方式が採用され、原子力委員会が発足した。10カ国以上を巡ったというその調査団の報告書がねつ造で、実際にはアメリカにしか行っていなかったという新聞報道があったのは、つい先日のこと。(朝日新聞)
半世紀以上日本人は欺かれていたことになる。こういうのを「あいた口がふさがらない」というのだろう。
この「国難」にあって斎藤茂吉なら何と詠んだだろうか。国策にそって「原子力は安全」と詠んだだろうか。まさかそのようなことはあるまい。そこが現代と戦時中の違いだ。マスコミも国の発表を一方的に流している訳ではないから。
原発の問題、エネルギー政策の問題は国家のあり方と関連している。この原発の問題を冷戦後の国家の状況と絡めて作品化したのは岡井隆である。(「角川短歌」2011年6月号・作品5首「ある感想」)
塚本邦雄や短歌作家として活動中の寺山修司が存命なら、どういう作品を残しただろうか。