「憲政の常道」。この言葉を残したのは、「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄だ。大正デモクラシー(大正期の政治・文化の民主主義的傾向)のころの、議会第1党と第2党が頻繁に政権交代したことを指す。
つまり第1党に失政があったときに、第2党が政権を担い、またその逆も然り、という原則である。この言葉が戦後政治の中で盛んに言われたのを僕は2回経験している。
一度目は1970年前後。「高度経済成長政策」の歪みが顕著になった頃だ。4大公害病の裁判(水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそく・阿賀野川有機水銀中毒)などがあり、他に薬害・スモン病、過疎と過密などの社会問題が一挙に表面化時代だった。このときの野党第1党が盛んに言ったのが「憲政の常道」という言葉。
「第1党に失政あるときは、野党第1党に政権をわたすべきだ。」
「いや、すべての野党の議席をたしても与党に及ばないのだから論外だ。」
テレビの国会討論会でこれが何度もくりかえされた。
二度目は、鳩山由紀夫政権の末期。やはり野党第1党の議員が国会質問で「憲政の常道」を口にした。
ところがこの「憲政の常道」に僕は根底から疑問を持っていた。第1党がダメなら、第2党が政権を担う、というのは一応の理屈だが、国会内の議席差はどうするのか。少数与党となり、「ねじれ国会」以上の問題が発生する。
そこで、この「常道」がどういう歴史的背景のもとに言われ始めたか調べてみた。もともとは尾崎行雄の言葉で、第ニ次憲政擁護運動(1924年・大正13年)を通じて慣行化された。
第二次憲政擁護運動は「普通選挙実施」への期待と結びついて展開された。関東大震災のあと、山本権兵衛内閣が短命に終わったあとで、山形有朋系(=長州閥・陸軍・司法系)官僚の清浦圭吾75歳で組閣した。これにに対し政党が反発し、総選挙の結果、政友会・憲政会・革新倶楽部の「護憲三派」内閣(加藤高明内閣)が成立した。
以来、5・15事件で犬飼毅が暗殺されるまでの満8年間、第2次加藤高明内閣・若槻礼次郎内閣・田中義一内閣・浜口雄幸内閣・第2次若槻内閣・犬飼毅内閣と続いた。
だが大日本帝国憲法のもとでは、首相の推薦権は元老にあり、それを受けて天皇が組閣を命じることになっていた。従って必ずしも第1党の党首が首相になった訳ではなかったし、官僚や退役軍人が第2党の「党首」としての体裁を整えて組閣することもあった。
組閣の勅命は政党ではなく個人に下ったからである。だから少数与党の場合もあった。ここで登場するのが「緊急勅令」である。首相の上奏により法律を「勅令=天皇の命令」として発布するのだ。これなら議会の議決なしに法律が成立する。
この「緊急勅令」は次の議会での承認を必要としたが、「神聖にして犯すべからず」の天皇の命令が否決されることはあり得なかった。
更にこれを進めると、「天皇の命で組閣した内閣には反対できない」ことになる。これが「日本国憲法」のもとでの「憲政の常道」になり得ないのは明らかだ。つまり「常道」は実は「常道でも何でもない」のだ。
ちなみに、尾崎行雄が「憲政の神様」と呼ばれたのは、第1次憲政擁護運動(1912年・大正元年)の時。犬飼毅とともに運動の中心となり、特に尾崎の歯切れのよい演説は高く評価された。
しかし第1次憲政擁護運動は1914年(大正3年)の第一次世界大戦のもと終息し、第2次憲政擁護運動によって始まった「憲政の常道」も1931年(昭和6年)の満州事変とそれに続く5・15事件により終わりを告げた。
これを歴史学者は「大正デモクラシーの挫折(金原左門)」、「政党政治の腐蝕(鹿野正直)、「大正デモクラシーの底の浅さ(今井清一)」という。その挫折や腐蝕の果てに戦争が起った。重大な帰結だと言わねばなるまい。
そして戦後。「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄は総選挙で落選し、政界を引退した。「神様が落選」したのである。
「・・・の神様」「・・・の常道・常識」というものには、時代背景があり、時として相対的なものだということだろう。
・基督(キリスト)のよみがへりし日旅を来てみづうみの中に衣(ころも)さむけく・
「遍歴」所収。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」99ページ。
・偶像の黄昏(くわうこん)などといふ語(こと)も今ぞかなしくおもほゆるかも・
「ともしび」所収。・・・「同」113ページ。
なお「ともしび」については、岡井隆著「< ともしび >とその背景」に詳しい。
*付記:参考文献・鹿野正直著「大正デモクラシー」、今井清一著「大正デモクラシー」、金原左門著「昭和への胎動」、遠山茂樹ほか著「昭和史」、竹内理三編「角川日本史辞典」。