・あはれなる光はなちてゆく蛍ここのはざまを下りゆくべし・
「白桃」所収。1933年(昭和8年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」175ページ。
幻住庵址(8月8日比叡山をくだる。藤田清ぬしの案内にて同人等芭蕉の幻住庵址を訪ふ)の詞書がある。
茂吉の自註。
「夏、比叡山のアララギ安居会にのぞみ、大津・石山・嵯峨等を経て帰京した。・・・前年のものに比して幾らか変化があるかとおもふが進歩といふ方面から謂へば、やはりおぼつかないのであらうか。」(「白桃・後記」)
「(比叡山から伊豆嵯峨温泉にかけての旅行の歌について)ただの空想ではおもひも及ばぬところである。・・・砂ばかり作ってゐるやうだが、実際さうであって、作者その時の< 心の傾向 >としてさういふものに余計に目が向くのであった。この< 傾向 >は生涯のうち幾度変化するか計り知られないが、その時その時の傾向もまた、< 生 >の分身として保存したいとおもうて居る。」(「作歌四十年」)
「昭和8年・9年は私事にわたってもいろいろの事があった。私のかかる精神的負傷が作歌の上に反映してゐるとおもふが、さういふ悲嘆時の未だ無かったまへに、処
々に旅行してゐるので、天然に観入した歌が存外多く、ために一巻の歌集としては多過ぎる程の歌を収めることができた。」(「白桃・後記」)
このように何やら複雑な背景があった時期であった(夫人のダンスホール事件、永井ふさ子との出会いの直前。岡井隆著「茂吉の短歌を読む」に関連年表がある。)。
砂をかむようなという言葉があるが、砂に目が行くというのもこの頃の茂吉の精神的傾向を示すものだろう。夫人との問題も、表面化する前に精神的葛藤があっただろう。その主観が作品のなかにあらわれている。
「あはれなる光」という表現は勿論、「はざまを下りゆくべし」という表現も、主観的であり、暗示的・象徴的でもある。「蛍」だけが具体である。
この「主観と客観の出入り」は後に佐太郎に受け継がれて行くものだが、若いころ伊藤左千夫から「理想派=空想派」と呼ばれた傾向とも重なり、茂吉がもともと持っていた資質でもあるのだ。
この傾向はアララギの中でも当初は珍しかったらしく、長塚節から「君は写生の歌は苦手のようだな」と言われた「赤光」の初期からあったものである。そういうことにを本人は気づいていたようだ。そしてその資質を活かし切ったといえる。
それが「近代短歌の巨人」と呼ばれるほどの作風に達した要因の一つなのだろう。自分の資質がどの辺りにあるのかを見極めた作者と、そうでない作者の作品は天と地ほど違う。また自分の願望がそのまま自分の資質でないことも多い。
なお「茂吉の山の歌」については岡井隆の前掲書「茂吉の短歌を読む」で山岳信仰が背景にあることがまとめられており、作品18首の解説がある。