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岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

齊藤茂吉27歳:生への執着を詠む

2010年04月16日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・隣室に人は死ねどもひたぶるに箒ぐさの実食ひたかりけり・

「赤光」所収。1909年(明治42年)作。「分院室」とある一連の中の一首である。

 齊藤茂吉は、学生時代にチフスにかかり卒業を延期したことがあった。それが27歳で再発。日赤病院の隔離病棟に入院した。伝染病の病棟であるから、患者が死ぬのも当時は珍しくなかったに違いない。

 その隣の部屋に茂吉はいる。その病床で「箒ぐさ」の実をむしょうに喰いたいというのである。茂吉自身のいうところによれば、「小さい頃、熱を出したりすると箒ぐさの実を食べた」ということである。

 箒ぐさはホウレンソウの類で薬草としても使われた。熱を出した茂吉少年を母が見守りながら、「箒ぐさの実が食べたい」としきりに茂吉は言ったそうである。薬草としても・・・と言っても利尿剤だから、熱さましやチフスに効用がある訳ではない。しかし、その実を喰いたいという。ここだけ見るなら故郷へのノスタルジアである。

 問題は始め二句「隣室に人は死ねども」をどう読むかであろう。「隣室で何があろうと、時が来れば渇き、かつ飢えるのが自然の摂理」「(死ぬのが他人で)あるがゆゑに、この泣き笑ひに似た悲しみは普遍性を持つ。」と塚本邦雄はいい、佐藤佐太郎は「いつわりのない人間感情」「切実でもあり、新鮮でもある」「隣室の死と箒ぐさの実との対照そのものが人世の深刻なひとつのすがたでもあり、そこに感動があって・・・」という。

 だがぼくは「死ねども」の「ども」に注目する。ここを順接の助動詞にすると、「人が死んでいくから、薬草として幼児期に親しんだ箒ぐさを喰いたい」という単なる報告になってしまう。「ども」と逆接にする事によって塚本邦雄がいうように、患者である茂吉の「自然の摂理」と読めるのである。

 しかも「箒ぐさ」が少年期の記憶と結びついていることが肝要であると思う。明治時代のチフスは、現在と比べかなり死亡率が高かったはずである。そのチフスに一度ならずかかり、隣室の病人は死んでいて、茂吉は少年時代の病床を思い出している。

 だから僕はこの歌を「人間として当然の< 生への執着 >」を表現したものだと思う。佐太郎のいう「切実」「詠嘆」とは、このような「生への希求」を強く吐露することなのであろう。

 また箒ぐさが少年期の記憶と繋がっていることは西郷信綱の言うように茂吉は「みちのくの農の子」であり、「隣室の死ぬ人間」と「箒ぐさ」の関係は「茂吉の二重性」と呼んでよかろうと思う。







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