時事詠と社会詠
前回に書いたように、「時事詠は短期的なものでいずれ忘れられてゆく」「社会詠は普遍的なもので後世に読み継がれていくものだ」と言うのが僕の理解。
例えば、重大な事件が発生し、その記憶が残っている期間にしか意味が通じないのは時事詠だと思う。これに対して、詞書がなくても後世の読者に伝わるのが社会詠だ。
「星座α」の尾崎主筆は「100年残る歌を詠め」という。社会と思想を詠んで、100年残れば「社会詠」だ。
それには何が必要か。これを確かめるべく、僕は「短歌」に匿名で投稿を始めた。角川の編集者のひとりにだけ、それを話したことがある。
数年間で、およそ100首は投稿しただろうか。そのうち30首ばかりは「短歌」の「公募短歌舘」や「題詠」で、入選、特選、秀逸、佳作となった。それをさらに選び抜いて、「オリオンの剣」「剣の滴」「聲の力」の三つの歌集に収録した。一巻にまとめるべきだったかも知れない。歌集のテーマが鮮明になるからだ。
これを広島に住む知り合いの歌人に話した。その歌人も、200首以上詠んで、一割ほどしか成功しなかったそうだ。
社会を自分に引きつける、普遍的な形にする。ここが難しい。「社会詠はかなり難しい心理詠」ではないかと思う。
・川風のやむときことに蒸し暑き昼ヒロシマの街をあゆみき
・爆風ものぼりゆきしやナガサキのここなる坂に白猫歩む
・かの日にも風は乾きていたりしや8・15満州の地に
・美しき海が埋められゆくことを繰り返される悲劇と言わん
これが社会詠が成功した作品の一部だ。詳しくは「星座α」のエッセイに書く予定。