「正岡先生の云はれた< 捉へどころ >といふ事も単に輪郭だけの急所でなく、もっと深い生命の急所にまで突込んで捉へる様に努力したいのである。」(「童馬漫語」)・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」68ページ。
「観入はつまりは実相、本質、総体、骨髄、核心に到りつくのであるから、対象に対する態度は平等無私であるべきである。」(「短歌初学門」)・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」308ページ。
これを佐太郎は「表現の限定」と言ったが、つまりは感動の中心に焦点を当てるということである。そういう視点で作品批評を書いた。
( 篝火に照らされ緋色の袴を雪に濡らす巫女の列の歌 )
雪の白さと緋色の袴。この色の組み合わせが美しい。緋の袴と足もとに焦点を合わせた視点もいい。清らかなういういしさが目に浮かぶ。巫女らが何をするのか、篝火がなぜ焚かれているのかは分からない。しかし、その一瞬を切り取ったところに価値がある。
( 異国人の雲水の素足の白さの歌 )
この作品も足もとに焦点をあてた。それが異国の僧であるという。ここに作者のひとつの発見と驚きがある。禅僧だが、外国人には禅に興味を持つ人が多い。西洋人は瞑想と禅を同一視する。仏教の教えから言うと両者は異なるのだが、そういった教義上の理屈は短歌表現のそとにある二義的なものだ。
( 鐘の音の余韻と救急車の音の歌 )
聴覚を効かせた一首である。余韻の残る鐘の音と遠くの救急車の音。その音を表現することによって、逆に静けさが際立った。作歌の時はこのように五感のアンテナを張りめぐらしたいものだ。
( 蠟梅の香の漂う夜に手紙を投函する歌 )
夜の歌。蠟梅ははっきりとは見えないだろうが、それだけに香りが際立つ。下の句から見て、急ぎの手紙なのだろう。朝一番の集配に合わせようというものだろう。ここに作者の感動の中心がある。
( 城址の女人塚の歌 )
山城の女人塚。落城の際の女人塚であろうか。それを葉を落としたさくら木が覆っている。歴史上の悲話を連想させる。時間的厚みのある一首だ。
( 独り居の老師の庭に被る初雪の歌 )
老師が誰かは述べられていない。独り居とあるだけである。その庭に冬菜が育ち、上に淡淡と初雪が被っている。感動の中心はむしろこちらの景だろう。そこに老師が住んでいる。誰だろうか。どんな人だろうか。読者の想像をかき立てる。
( 段畑続く道の上の陶器の里へ急ぐ歌 )
この作品も地方色がよく出ている。石積み、段畑、峡の道。その上に陶の里がある。陶工が住んでいて、陶器を焼く窯があるのか。しかもそこへ急ぐという。一首の背後に風土に裏打ちされたドラマ性がある。
*ものごとの核心を捉え暗示にとどめれば、背景に大きなものがあるように感じられる。それが佐太郎のいう象徴だ。「短歌は象徴の文学」と言ったのは岡井隆だったか。
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