僕は事実を事実として短歌を詠む。リアリズムではない。佐藤佐太郎の直弟子の尾崎左永子氏から「事実と詩的真実は違う」と教えられた。満月を三日月に買えたり作品の効果が上がる様に工夫する。佐藤佐太郎もそういう態度だった。
これが佐太郎の写生だが、リアリズムにしても写生にしても、明星派にしても事実を事実として作品化してきた。これとは違う表現方法を象徴派の作品と呼ぶ。自由詩の世界では吉田一穂がそれにあたる。
札幌の詩人、渡辺の作品は象徴詩の部類にはいるだろう。しかし特徴がある。
この詩集は全体が三部に分かれている。「種子 21篇」「夕景8篇」「水死郷16篇」。
最初の「種子」は完全な象徴詩から始まる。だが作品を順に追って行くと、現実の生活から幻影、思考の世界へはいっていく作品となる。いわゆる生活派の作品とはそこが違う。そして全45編を通じて強く感じられるのは言葉の鋭さ。人間や社会への深い洞察がうかがえる。作品に隙がない。言葉が濃密だ。
次の「夕景」。都市生活者の視点からの生活実感からはいって象徴詩の世界へはいっていく。この8篇も、作品の骨格がしっかりしている。
最後の「水死郷」。ここの「郷」ふるさとは日本列島だ。こういう現実の生活から象徴詩の世界にはいっていく。生活実感からはいるものもあるので「夕景」にいれようかと迷った作品もあっただろう。同様に「種子」か「夕景」か境界にある作品もある。
北海道でお目にかかったときの印象は穏やかな方だったが、作品には激しいものがあふれている。読んでいるうちに迫力に満ちた情感が伝わってくる。
中に散文詩が収録されている。散文詩は事実の説明になりがちになる場合が多いが、渡辺の散文詩は言葉が省略され余剰がそぎ落とされている。散文詩でも散文ということを感じさせない。ここにも作者の作品の特徴がある。これは作者の第三詩集『春をめくる』『ああ蠣がいっぱい』に継ぐ詩集。第二詩集では北海道詩人協会賞を受賞している。
実力派の読み応えのある詩集だ。