『断片』」は鵜飼康東の第一歌集である。鵜飼は佐藤佐太郎の弟子であり、歌集の「後記」には、「私の作歌信条は正岡子規を源流とする『写生万葉調』の一語に尽きる」と書かれている。
しかし集中の作品は、佐藤佐太郎の歌風とは異なっている。収録歌は374首だが、何ともインパクトのある作品が満ちている。
・黒ずみて窓の小さな取引所かつて健康なりし資本主義
・六月の夜霧のなかをあゆみきて火薬のごとき匂とおもふ
・鵜飼康東は合理主義者ゆゑいつの日か歌をやめんと幾度聞けり
・漠然としたる未来の不安のてもはや右翼も左翼も敵ぞ
・壮年の日々あらそひしナロード二キに親しみし死に近きマルクス
・一九六九年にわれを体制派とののしりし友の務むる多国籍企業
これらの作品は、佐藤佐太郎の詠風とは全く異にする。作者はいわゆる「団塊の世代」で、学生運動の真っ最中にいた。それを思わせるのが、1974年「角川短歌賞」を受賞した、「テクノクラットのなかに」50首詠に収められている。
・民族のナショナリズムのせめぐさま寒き歳晩の日々に聞こゆる
・はげしくもイデオロギーのせめぐときテクノクラットの一人ぞわれは
・神のため死ぬという逆説にしたがいひし日本二十六聖人
・石もちて聖者を打ちし群衆のなかにタルリのパウロも居たり
・抑圧にしひたがられし群衆のただ強者のみ撃つにもあらず
「学生運動」を直接示唆した作品はない。作品はすべて暗示に留められている。これは佐藤佐太郎の「純粋短歌」の方法だ。しかし作者の思想的葛藤は表現されている。
また後半の「明子」17首詠も注目される。佐太郎の短歌にはなかった相聞歌だ。
・手をつなぐときにかすかに震へをり鈴懸の道あゆみて来れば
・窓外に日しがら若葉かがやくをわれはさびしむ明子とをれば
どうだろう。青春の相聞歌としてのみずみずしさがありはしまいか。
このように佐藤佐太郎とは全く異なる詠風が、着実な叙景歌、写生歌に支えられているのも見逃せない。
・かなしみて丘のあるとき雲翳のあひだをあをき空おしひらく
・みぞれふる夜にかへりきてうらがなし革の匂のしるき手袋
・かげりなき春の寺庭をあゆみ来て白藤の花風にこぼるる
佐藤佐太郎の系譜の歌人は「佐太郎調」に拘るが、「純粋短歌」に学べば、100人いれば100の新風が生まれるはずである。鵜飼康東の『断片』は、佐太郎門下の「新風」と言えよう。