「あら草という植物はないんだよ。」
と言ったのは、どこかの植物学者であったろうか。
しかし、それは植物学上の話。詩となれば話は別である。詩作・作歌と植物研究は全く次元の違う話である。岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」の収録作品でみてみよう。
佐太郎の作品の特徴のひとつに「表現の限定」がある。余剰を排する、削ぎ落とす、単純化する、具体を捨象する、などとさまざまに言われるが、つまりは「感動の核心のみを残して、残りは捨てる」ということだ。
さっそく見てみよう。まず傾向として二つの場合がある。ひとつは植物名を具体的に表現にとりこむ場合。これを1としよう。もうひとつは、一般的な呼称で呼ぶ場合。これを2とする。(一部カナ表記にした。)
・「軽風」より
1、桑の実・馬鈴薯・葦・小豆・黍・棕呂(しゅろ)・いたどり・躑躅。
2、青草。
・「歩道」より
1、高桑・蓮・檜・からたち・葉牡丹・杉・樟(くす)・山茶花・葵・公孫樹・欅・槻の木(けやきの古称)。
2、水草(みくさ)・叢(くさむら)。
・「しろたへ」より
1、椎・曼珠沙崋・八手・山葵・菱・銀杏・白椿・檜・山茶花。
2、常磐木・篁・苔。
・「立房」より
1、優鉢羅花・ひま・青柳・橡(とち)・楡(にれ)・いたどり・蓮・蓼(たで)。
2、草・草のたぐひ・太樹々。
第5歌集以降は活愛するが、一般的呼称が増えていることは注目してよい。「帰潮」以降では、花群(はなむら)・花ら・木々・竹群(たかむら)・草藪(くさやぶ)・冬木・常磐木・あら草などが出てくる。
種類まで細かく表現するときは、場所を特定したり、「虚語」を使用して植物の様態が印象深くなるように工夫している。
歌は植物の知識を伝えるものではなく情感を伝えるものだから、具体的植物名も「限定」(具体的植物名を場合によっては「捨象」する)の対象であったと言っていいだろう。確か斎藤茂吉の作品にも「菊科(菊科植物のこと)」という用例があったと記憶している。
