歴史ドラマをどう見るか。これは実は大きな問題なのだが、余り知られてはいない。岡井隆は「佐藤佐太郎の作品にフィクションがある」(「星座52号」)といったが、歴史ドラマとなると事情が異なってくる。
1、歴史ドラマ・歴史小説にもいろいろある:
前近代、例えば戦国時代が舞台設定されている場合、娯楽時代劇として見ることができる。史料と合わない事があっても、時代考証には歴史の研究者がついているし、現代とはかけ離れた時代だから、問題は起りにくい。
だが近現代(幕末以後)の場合は事情が違ってくる。なぜなら現代の社会と直結するからだ。何しろ「維新の元勲」や、戦後の公職追放になった人間の子孫が総理大臣や国会議員になっている。明治を描くのは、現代社会をどう見るかに直結する。
当然、見る目は厳しくなる。時代が近い分だけフィクションと歴史事実の混同・歪曲が起こり易い。
2、ドラマ・小説を事実と混同する危険:
今回の「坂の上の雲」でもそういうことがいくつかあった。歴史的事実の歪曲があった。
先ず旅順攻撃の長期化のときに「短期間で作った日本の近代国家が、30余年で崩れると思った」というナレーションがあった。「近代国家」をどう定義するかにもよるが、行政制度が西洋式になっただけでは「近代国家」にはならない。日清日露戦争と産業革命を経て、「近代国家」が完成するのだ。
また奉天会戦の勝敗について。主人公の一人秋山好古の奮戦により「日本の戦略的勝利、ロシアの戦略的惨敗」というナレーションがはいったが、実際はロシア指揮官のクロパトキンが錯覚したのと、ロシア軍の「戦略的撤退」である。それも左翼と右翼の陽動作戦により、機を見ての中央突破という「カケ」に近い作戦だ。「危ういカケ」が辛うじて成功したあと、児玉源太郎が「和平交涉の早期開始」要請のため東京へ飛ぶが、それはごく一瞬のカットだった。
最後に第1次ロシア革命の発端。ドラマではナレーションで日本軍の諜報将校の「そそのかし」を述べるが、革命は一個人の「そそのかし」などで始まるものではない。「血の日曜日事件」や「ゼネスト」の話はなかった。
3、歴史は誰が作り、時代像をどう把むか:
司馬遼太郎は「歴史は作家が作る」と言ったそうだが、これは完全な誤りだ。歴史はその時代の人間が作る。いやその時代の人間の営みそのものが歴史なのだ。その歴史のうち限られた史料から、根拠に基づくものを集めて、歴史像を再構成するのが歴史学者の仕事。作家はそういった業績をさらに再構成して「売れる物語」にする。司馬のいいようは、本末転倒だ。
そういう「作られた歴史」の中で、日露戦争では「3人の軍神」が誕生した。乃木、東郷、広瀬の三人だ。ともに銅像が作られ、そのうち二人は名前を冠した神社が建立された。この軍神が15年戦争で最大限利用されたのは、いうまでもない。
それに対して民衆の描き方。ひたすら勝利を願い、講和に反対し「日比谷焼き打ち事件」を起こす。「確かに足尾鉱毒事件はあった・・」というナレーションがはいったが、「そうした暗い見方だけが、民衆の歴史ではない」でぶち壊しになった。ドラマの中の「民衆」は、戦争で国力を使い果たしたことさえ理解できぬ、『無知な存在』として描かれた。そもそも「日本には戦争継続の余力がなかった」ということが全くといっていいほど描かれていない。(こういう描き方は江藤淳の「海は蘇る」にも共通する。)
4、ドラマ「坂の上の雲」の特殊性:
そのドュメンタリータッチ。思わず小説はフィクションということを忘れさせる。歴史事実と混同され、読者のなかに「司馬史観」が擦りこまれる。だが「坂の上の雲」は司馬遼太郎個人の歴史観に基づいた、フィクションである。歴史学者の仕事のように「学会」で議論されたり、集団で検証されることもない。
原作者の意図とどんどん外れて行ったこと。「坂の上の雲」の原作者、司馬遼太郎は「15年戦争」の大陸の戦線で、日本兵の遺体が日本軍の戦車に踏みにじられるのを見て、戦争の不条理を感じたという。原作「坂の上の雲」でそれが十分に表現されているかは別として、ドラマでは原作者の意図をどんどんはなれていった。その一つは戦闘シーンの多さ。「文章と映像では印象が違う」と映像化を拒んでいた。NHKが「戦争賛美にならないように十分配慮する」と言って、映像化の許可を受けた。だから原作にない場面が多かった。だがそれが「韓国併合は合法的だった」などと言う「愛国者」に反発された。それだけ政治的プロパガンダにもなり得る、映像化だった。
放映のタイミングの特殊性。「坂の上の雲」は初め、大河ドラマとして企画されたと聞いた。もし大河ドラマなら、後半のほとんどは戦意高揚の映像となる。
次に「秋のスペシャルドラマ」として宣伝された。ところがそれが年末にずれこんだ。しかも3年に分けての「年末ドラマ」となった。異例中の異例である。
また一年目は「白洲次郎」、三年目は「蝶々夫人」が、「坂の上の雲」放映の直前にスペシャルドラマとして放映された。「白洲次郎」は翼賛体制を作った近衛文麿が良識人として描かれた。「蝶々夫人」は治外法権下の日本女性がアメリカ海軍の士官に捨てられる「無権利状態」をあらわした。その「夫人像」に異論はないが、「蝶々夫人」と「坂の上の雲」を連続してみれば、日清日露戦争不可避論につながると思ったのは僕だけではないだろう。
そしてさらに奇妙なのは、一年目の「白洲次郎」の放映が伸び伸びになったこと。第一回、第二回が8月に放映されたあと最終回の放映時期は未定だった。(NHKコールセンターの答えも「未定です」だった。)
この年は麻生政権末期で解散総選挙が伸び伸びになった年である。それに合わせ「坂の上の雲」につなげようとしたという指摘もあがっている。この年は総選挙による政権交代があり、もっと視野を広げれば、「憲法改正」の論議が国会で具体的に始まるとされた年だった。その微妙な時期に、特定の政治色の濃い「ドラマ」を立て続けに放映したことに、隠された意図を感じるのだが、どうだろう。
ちなみに「坂の上の雲」の映像化は「エビジョンイル」と呼ばれた海老沢元NHK会長の直接の指示だそうである。
5、日本軍の特殊性と斎藤茂吉の評価:
日本海海戦は日本の勝利におわったが、作戦には二つの「カケ」があった。一つはバルチック艦隊を待ち構えるのを、日本海の対馬にするか、太平洋側にするか。もう一つは敵艦隊に艦船の横腹をさらす「丁字作戦」である。
一つ目。バルチック艦隊は沿海州のウラジオ・ストックを目指しており、日本海を通るか、太平洋から津軽海峡を通るか、見当がつかなかった。そしてギリギリまで対馬海峡で待った。太平洋にまわる決断の直前、バルチック艦隊を見つけた。いわば「運が良かった」のである。
二つ目。「丁字作戦」は秋山真之の発案で、艦船の向きを変えるまでの5分間は、敵艦の標的となった。が、幸い艦船は被弾しなかった。これに「常識破りの陣形」とナレーションがはいるが、要は「カケ」である。
奉天会戦の秋山好古の行動もまた「型破り」。成功すれば「作戦勝ち」だが、失敗すれば「策に溺れる」となる。しかもすべて相手の意表をつく奇襲攻撃の発想だ。思えば、武士の世には「夜討ち」「朝駆け」というのがあった。「運も実力のうち」という英訳不能の諺もある。日露戦争の司令官は全て士族出身である。武士の常道は欧米の常識では測れない。これが日露戦争の「作戦の要」だった。そして戦力が底をつく寸前に第三国に「和平の仲介」をたのむ。
こういう精神論的なものが、日本軍の「伝統」「手本」となった。日米開戦の前、陸軍では何と信長の「桶狭間の戦い」が研究されたそうだ。「機先を制することこそ勝利の鉄則」これが日本軍の基本的考え方となった。
日露戦争の推移は、太平洋戦争のそれと非常に似ている。「緒戦で相手を叩き、有利なうちに第三国(ソ連)に仲介を依頼する」。ところが「15年戦争」でソ連は開戦当時から「連合国」の一角だった。このように目論見がことごとく外れた結果が日本の敗戦である。
こういう日本人の精神論に茂吉は弱かったようである。斎藤茂吉の戦中の言動のもとにこのような事情もあったのではなかろうか。おまけに茂吉の20代と30代初めは日清・日露・第1次世界大戦の「戦争熱」のなかで過ごした。
それに対して土屋文明は「リアリスト」。1933年(昭和8年)の両者の作品を比較するとよくわかる。文明は戦争に対し否定的で、戦争が機械化・大規模化することに「恐ろしさ」を感じている。20代から30代半ばまで「大正デモクラシー」の時代を経たせいだろうか。
「カテゴリー/短歌史の考察・1933年(昭和8年)の斎藤茂吉と土屋文明」。