正岡子規と夏目漱石。岩波文庫で「子規漱石往復書簡集」が出ているように「文学」を通しての交流が深かったのだが、「編集者(エディター)」としての共通点があったという。はじめての切り込み方と思い、「短歌研究」2012年1月号の長谷川郁夫の評論(文責・編集部)に注目した。
まず編集者の手腕とは何か。新人の発掘などの「何かを見出す力」、AとBの化合によって異なるものをつくりだすといった「配列する力」。この二つがあるという。子規は俳人・歌人。漱石は小説家。その二人にどのような資質があったのか。
先ず正岡子規は夏目漱石の持っている漢詩文の才能を見出した。漱石はひどく喜んだようだ。
やがて漱石はイギリス留学。ロンドンで古本屋めぐりをしているころ、子規の死を知った。帰国後40歳近くになって「吾輩は猫である」を執筆。子規没後に刊行されることとなるが、その中には「子規が生きている」という。
最初の本の挿絵に漱石は無名の画家の才能を発見して本の装丁を依頼した。時代は未だ和綴じが主流の時代。発刊される漱石の本の装丁は見事で、その中に漱石は子規を生かし続けた。以上のような文脈だった。
面白い観点だ。子規は漱石の才能を発見し、漱石は無名の画家の才能を発見した。
§ § § § §
これに僕の知っている「子規と漱石の関係」を挙げてみる。(大岡信著「正岡子規-5つの入口」を参考に。)
子規は漱石の俳句の才能を買っていた。「ホトトギス」の後継者候補の一人と目していたが、漱石はイギリスへ留学。その間に子規は世を去った。やがて漱石は帰国。
子規やその門下の高浜虚子・長塚節・伊藤左千夫らは一時、小説を目指したが、あっという間に漱石という子規庵に出入りする仲間に追い越されてしまった。
漱石は言文一致を見事になしとげた。坪内逍遥や「写生文」を目指した「ホトトギス」同人を横目に。いかにも軽々と。初期の「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などは「ホトトギス」に掲載された。そのせいで雑誌はあっという間に売り切れた。
しかし漱石とて、いきなり文才を発揮した訳ではない。英文学者になるべくイギリスに留学した漱石だが、イギリス人の英文学者にはたちうちが出来ないと感じて帰国。その後しばらくは英文科の先生をしていたが、やがて「朝日新聞」に引っこ抜かれて、社員となり連載小説を書くようになる。
何せ漱石は東大教授だったから、一新聞社の社員になるにあたっては、色々と考えた。東大教授より高い給与、小説が売れなくなっても簡単に放り出さないことなどを
条件にした。金銭的にも苦労があった。親戚から無心されて金を貸すが返ってこない。それが小説「道草」にはリアルに書かれている。
漱石に文才はあったが、それを開花させたのは漱石自身の努力があったればこそである。
§ § § § §
最後に「子規・漱石往復書簡集」(岩波文庫)に子規と漱石のこんなやりとりがある。
子規「今度の僕の小説どうだった?」
漱石「なっちゃないね。君には才能がないよ。」
読みやすいように現代語にしたが、子規が一方的に漱石の漢詩の才能を発見したのではない。逆に漱石が子規に対し、小説の才能がないのを突きつけたのだ。
子規は若くして亡くなり、短歌革新は中途だった。長生きしていれば、「俳句・短歌の短詩の子規」「散文・小説の漱石」と並び称されていただろう。
岡井隆は「斎藤茂吉の師は伊藤左千夫と森鷗外」というが、これに子規を介して夏目漱石も加わったかも知れない。
付記:< カテゴリー「歴史に関するコラム」「身辺雑感」「短歌史の考察」「短歌の周辺」「作家・小論」「紀行文」「斎藤茂吉の短歌を読む」「茂吉の宿題」「佐太郎の独自性」「岩田亨の短歌自註」「私が選んだ近現代短歌の一首」 >をクリックして、関連記事を参照してください。
まず編集者の手腕とは何か。新人の発掘などの「何かを見出す力」、AとBの化合によって異なるものをつくりだすといった「配列する力」。この二つがあるという。子規は俳人・歌人。漱石は小説家。その二人にどのような資質があったのか。
先ず正岡子規は夏目漱石の持っている漢詩文の才能を見出した。漱石はひどく喜んだようだ。
やがて漱石はイギリス留学。ロンドンで古本屋めぐりをしているころ、子規の死を知った。帰国後40歳近くになって「吾輩は猫である」を執筆。子規没後に刊行されることとなるが、その中には「子規が生きている」という。
最初の本の挿絵に漱石は無名の画家の才能を発見して本の装丁を依頼した。時代は未だ和綴じが主流の時代。発刊される漱石の本の装丁は見事で、その中に漱石は子規を生かし続けた。以上のような文脈だった。
面白い観点だ。子規は漱石の才能を発見し、漱石は無名の画家の才能を発見した。
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これに僕の知っている「子規と漱石の関係」を挙げてみる。(大岡信著「正岡子規-5つの入口」を参考に。)
子規は漱石の俳句の才能を買っていた。「ホトトギス」の後継者候補の一人と目していたが、漱石はイギリスへ留学。その間に子規は世を去った。やがて漱石は帰国。
子規やその門下の高浜虚子・長塚節・伊藤左千夫らは一時、小説を目指したが、あっという間に漱石という子規庵に出入りする仲間に追い越されてしまった。
漱石は言文一致を見事になしとげた。坪内逍遥や「写生文」を目指した「ホトトギス」同人を横目に。いかにも軽々と。初期の「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などは「ホトトギス」に掲載された。そのせいで雑誌はあっという間に売り切れた。
しかし漱石とて、いきなり文才を発揮した訳ではない。英文学者になるべくイギリスに留学した漱石だが、イギリス人の英文学者にはたちうちが出来ないと感じて帰国。その後しばらくは英文科の先生をしていたが、やがて「朝日新聞」に引っこ抜かれて、社員となり連載小説を書くようになる。
何せ漱石は東大教授だったから、一新聞社の社員になるにあたっては、色々と考えた。東大教授より高い給与、小説が売れなくなっても簡単に放り出さないことなどを
条件にした。金銭的にも苦労があった。親戚から無心されて金を貸すが返ってこない。それが小説「道草」にはリアルに書かれている。
漱石に文才はあったが、それを開花させたのは漱石自身の努力があったればこそである。
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最後に「子規・漱石往復書簡集」(岩波文庫)に子規と漱石のこんなやりとりがある。
子規「今度の僕の小説どうだった?」
漱石「なっちゃないね。君には才能がないよ。」
読みやすいように現代語にしたが、子規が一方的に漱石の漢詩の才能を発見したのではない。逆に漱石が子規に対し、小説の才能がないのを突きつけたのだ。
子規は若くして亡くなり、短歌革新は中途だった。長生きしていれば、「俳句・短歌の短詩の子規」「散文・小説の漱石」と並び称されていただろう。
岡井隆は「斎藤茂吉の師は伊藤左千夫と森鷗外」というが、これに子規を介して夏目漱石も加わったかも知れない。
付記:< カテゴリー「歴史に関するコラム」「身辺雑感」「短歌史の考察」「短歌の周辺」「作家・小論」「紀行文」「斎藤茂吉の短歌を読む」「茂吉の宿題」「佐太郎の独自性」「岩田亨の短歌自註」「私が選んだ近現代短歌の一首」 >をクリックして、関連記事を参照してください。