2020年2月1日。60歳の誕生日を迎えた。中学校の頃「40歳まで生きれば、21世紀となる瞬間を体験できる。なんとしてもそこまで生きよう」と思った。それが60歳になるとは、想像ができなかった時点に今の僕はいる。
父は60歳で退職、64歳で亡くなった。退職の直前は「職場では、体がしんどい、しんどい」と繰り返していたが、僕もその年齢となった。
50歳の時は「生まれて半世紀」という高校の同窓会があって、同窓生が、こうしたブログを作る様にすすめてくれ、斎藤茂吉、佐藤佐太郎、日本語、短歌を考えるをテーマにした。先輩歌人の多くが驚いた。大きなテーマであるし、僕自身も短歌をめぐって試行錯誤だった。
55歳の時は、ちょうど誕生日に、日本人人質がISに殺害されショックを受け一週間寝込んだ。それを「ハチ公前の追悼集会」で、気を取りもどし、市民運動に参加するきっかけとなった。政治や社会についてのエッセイもこのブログに書いた。まだまだ意気軒高だったのだ。
そして60歳。今までとは決定的に違う。気力、体力が極端に弱まっている。
2019年から2020年への年末年始は、最悪だった。欝の症状が重篤となり主治医のアドバイスを受けた。腸閉塞にもたびたびなりかけた。これが2月1日の誕生日前後まで続いている。今でも現在進行形だ。
先はそう長くないだろうから、エンディングノートに必要事項を書き込んだ。死後の墓所も確定した。だが何か足らない。何かやり残したことがある。
短歌の行く末、日本社会の行く末が、心配でならない。
だから市民運動へ参加するのはやめられない。「星座」が事実上の廃刊となって「星座α」までが休刊となったら、短歌を止めるつもりだった。だがやはりやめられない。
この記事を書いているのは2月4日だが、豚カツの肉が堅くて腸閉塞になりかけ、嘔吐もした。深刻な症状だが、出先でいち早く兆候を感じ、持ち歩いている「コーラック」を早めに飲んだので、日付が変わるころには何とかなった。
この先の人生はおまけ。そうも考える。だからやり残しがないようにしたい。
「世はもう死ぬ。まだまだやりたいことがある。死ぬのはいやだ。助けてくれー。」こういうのは、小学校の時に読んだ「火の鳥」(手塚治虫原作)に登場する人物。
ヤマトタケルの父、系譜によれば景行天皇だ。(「ヤマト編」)これが鮮烈に残っている。こうはなりたくない。残された時間は、どのくらいあるのだろう。