失意の歌 斎藤茂吉の短歌
・やけのこれる家に家族があひよりて納豆餅(なっとうもちひ)くひにけり『ともしび』
・やけあとのまづしきいへに朝々に生きのこり啼くはにはとりのこゑ『ともしび』
・焼けあとにわれは立ちたり日は暮れていのりも絶えし空しさのはて『ともしび』
3首とも『ともしび』に収録されている。これより前、1921年(大正10年)から、1924年(対象14年)まで、斎藤茂吉はヨーロッパに留学した。博士号をとったのち研究者として生きようという希望もあった。
だが彼は失意のもとに帰国した。養父斎藤紀一の経営する青山脳病院が全焼したのだ。帰国の途に就いた船上で、茂吉はその報を聞いた。
折り悪く、火災保険が切れており、茂吉の蔵書、留学先から送った書籍も灰となった。特に留学先から、送った書籍は、食費を切り詰めて、買い求めたもので、それを失ったのは、茂吉にとって、精神的打撃だった。一首目の字足らずが、なんとも痛々しい。
この歌集にはほかに
・うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなってあらはるるなり
・なにがなし心おそれて居たりけり雨にしめれる畳のうへに
と言った作品もある。
小池光は「斎藤茂吉はエリートだ。」(『茂吉を読むー50代5歌集ー』)と言うが、世間で考えるような、エリートではない。一応安定した自作農の家には生まれたが、三男の茂吉に土地を分割する余裕などなく、親族の斎藤家に見込があるなら養子にすると上京し、年の離れた「婚約者」照子の子守をもしている。
そこへこの火災である。その失意の深さは計り知れない。
岡井隆も上田三四二も、この経験が斎藤茂吉の転機だったとし、特に上田三四二は「第二次斎藤茂吉の時代」と言うほどだ。篠弘の言う「万葉調を駆使した悲歌」(岡井隆編『集成・昭和の短歌』)という作風がふかまっていくのだ。