・そこはかとなく日くれかかる山寺に胡桃もちひを呑みくだしけり・
「石泉」所収。1931年(昭和6年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」158ページ。
「ともしび」では、焼け跡で納豆餅を喰うのを作品にした茂吉だが、餅には特別な思い入れがあったようだ。もともと斎藤茂吉の作品には「赤光」以来、食に関するものが多い。岡井隆著「茂吉の短歌を読む」では、「< 赤光 >飲食(おんじき)の歌」「< つきかげ >飲食のうた・・・」と独立した二章をあてているくらいである。
この作品についての自註は「作歌40年」「石泉・後記」にはない。佐藤佐太郎「茂吉秀歌・上」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」にもとりあげられていない。
だがかなり気になる一首である。先ず結句の「呑みくだしけり」。「けり」と詠嘆しているのだが、何をどんな気持ちで詠嘆しているのか。ここが気になる。
それを暗示しているのが、上の句の表現だ。「そこはかとなく」「日くれかかる」「山寺」。ここに一種の「うら悲しさ」が漂う。おまけに「呑みくだす」ものが胡桃餅である。独特の風味と食感がある。少なくとも甘美ではない。むしろ「ほろ苦い」味に近いだろう。きなこ餅とは余程違う。
悲しい・憂鬱・侘しいなどの主観語はない。淡々と「胡桃餅を食べた」事実だけが表現されている。が、独特の寂寥感が感じられる。
客観的なことを表現しながら、そこに主観を表す。これが茂吉の「象徴」のありかたであり、「実相観入」(佐藤佐太郎の言い方に沿えば「客観と主観の一体化」)である。
この暗示の方法、客観と主観の一体化は佐藤佐太郎に引き継がれていく。その意味で、斎藤茂吉の「隠れた秀歌」とは言えまいか。ただ茂吉の力量からすれば、標準的な出来の作だったのかも知れない。