永田和宏著 『現代秀歌』 岩波新書
「星座」の尾崎左永子主筆は、著書『佐藤佐太郎秀歌私見』で「現代の短歌は百家争鳴」と述べた。この指摘の通り、現代の短歌は「何でもあり」という状態だ。
この『現代秀歌』を読んで改めて感じた。本の帯には「今後100年読まれ続けて欲しい秀歌100首」とある。収録作品は『近代秀歌』以降のものだ。『近代秀歌』の収録作品が詠まれた期間は、およそ90年。それに対して『現代秀歌』はおよそ70年。年数に大きな差はない。
だが読んでいて率直に感じる。「現代短歌は不作だ」。100首のなかで秀歌と感じられたのは、およそ30首しかない。特に高度経済成長期以降の作品に不作を感じる。
主題を欠いている。作品の重みがない。人間や社会への切り込みが浅い。こう思うのは、僕だけではない。
小高賢は「批評の不在」を言い、永井祐の作品のどこがいいのか説明して欲しいと述べた。馬場あき子は「(去年の角川短歌賞受賞者の)谷川電話に苦言を呈した。岡井隆は「もはや俵万智の時代ではない」「どちらかと言うと穂村君は負の帝王だ」と述べる。
僕の意見は既に記事にした。全体を俯瞰すると、1970年以降に歌壇に登場した歌人の作品に厚みがない。岡井隆は「高度成長が状況を変えてしまった」「こういう時代は仕方がないところがある」と述べる
戦後派と呼ばれた、宮柊二、近藤芳美、前衛と呼ばれた、塚本邦雄、寺山修司、岡井隆の作品は、秀歌と呼べるものがある。この前衛の時代の「青年歌人会議」に集った世代の作品も秀歌と呼べるものがある。
だがそれ以降は、前述の問題を抱えている作品が多いように思う。問題の原因は様々あろうが「文体論」で短歌の新しさが語られてきたことに中心的な問題があったのではないかと思う。それを実感するのに、是非一読を勧めたい。秀歌と感じた作品を幾つか挙げよう。
・たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき 近藤芳美
・海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司
・革命家作詞家に倚りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄
・冬の苺匙に壓しをり別離よりつづきて永きわが孤りの喪 尾崎左永子
・夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん 馬場あき子
・かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり 前登志夫
・春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ 前川佐美雄
・秋のみづ素甕にあふれさいはいは孤りのわれにきざすかなしも 坪野哲久
・昏れ方の電車より見き橋脚にうとあたり海へ帰りゆく水 田谷鋭
・死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日一日はいづみ 上田三四二
・ゆずらざるわが狭量を吹きてゆく氷湖の風は雪巻き上げて 武川忠一
先に紹介した『近代秀歌』と同じく、テーマごとに章が立てられている。それゆえ、同じ主題での作品比較が出来る。主題を深く掘り下げたのか、掘り下げが浅いのかが際立つ。
また永田の鑑賞文がエッセイと言えるほどの分量だから、読みものとしても面白い。『近代秀歌』とセットで読むのがお勧めだ。
この不作の原因は何か。『短歌』2015年4月号、5月号を手懸りに、明日の記事で考えてみたい。