・青葉くらきその下かげのあはれさは「女囚携帯乳児墓」(じょしゅう・けいたい・ゆうじの・はか)・
「暁紅」所収。1936年(昭和11年)作。
茂吉の自註から。
「晩春の或日、牡丹を見がてら品川の東海寺を訪うたが、牡丹はもはや過ぎてゐた。それから程近い墓域を訪ひ、賀茂真淵の墓にまうで、ついでにその他の文人学者の墓にも敬礼をした。その時ふと、繁った若葉に隠されるやうにして、この『女囚携帯乳児墓』といふのがあるのを見つけた。ある篤志の婦人ででもあらうか、悪因縁によって罪になった女囚に乳児がゐて、それが育たずに死んだのをあはれに思ひ、菩提を弔らふために建てた、いはば共同墓石なのである。それを見付けたとき作者はひどく感動して、一首の歌に纏めようと思って辛うじて出来たものである。『あはれさ』と第三句に置いて、センチメンタルになったが、これは恐らく許してもらへると思ってゐる。」(「作歌40年」)
茂吉自身は「センチメンタル」と言うが、ただならぬ気配がする。「女囚」といえど人間である。出産することもあろう。獄中の環境は厳しいから、その乳児は育たなかった。「女囚」「乳児」「墓」とこれだけでも、異様な雰囲気がする。それが「青葉のくらき下かげ」にあるというのだから、なおさらである。
墓地で「乳児の墓」を見るだけで、心が締め付けられるような感じがするだろうから、センチメンタルなところはない。まあ他に言いようがない訳ではないので、そう言ったのだろう。「あはれさ」のかわりに「静かなり」でも十分だと僕は思うが、「あはれ」と茂吉が強く感じたのだろう。
面白いのは、佐藤佐太郎、長沢一作、塚本邦雄が揃って、この作品に注目していることである。三人揃ってというのは、そう多くはない。茂吉の自註と重ならないように抄出しよう。
「薄暗い木下かげの小さな墓など人はおそらく顧みようとしないし、その文句に反応しないだろう。このような事実の哀れ、文字の常識をこえた簡潔さに敏感に反応するのが、この作者の傾向であり、力量であった。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)
「普通、乳幼児がいること、あるいは伴うことを『携帯』とはいわない。若しかすると法律の用語などにあるのだろうか。とにかく、このもの暗い墓域に、このように刻まれた無縁の墓があった。この『女囚携帯乳児墓』といふ語句に特色があり、作者のいうように簡潔であり、哀れが深い。・・・『携帯』についてのちに判ったが、監獄法第12条にあるそうである。」(長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」)
監獄法は古い法律だが、入獄のときは乳児も「もの扱い」のようなニュアンスだ。もっとも法律家は「法律用語」というだろうが。
「この一首の異様な感動も、この『携帯乳児』からの違和感から派生し、かつ湧出するのだ。人であって、しかも人外に幽閉される罪人が、人がましく子を生み、無残にして無慚な母子の縁を結び、しかも断ち切られる。・・・母より先に世を去るこの嬰児の無言の嘆きは、みづからを無生物化した『携帯』の字面からも滲み出す。」(塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」)
塚本邦雄は岡井隆とならび、斎藤茂吉を読み込んだ一人だけのことはある。
