・にほひたる紅葉(もみぢ)のいろのすがるれば雪ふるまへの山のしづまり・
「暁紅」所収。1935年(昭和10年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」191ページ。
先ずは語註。
「すがるれば」(「素枯る=枯れるの已然形」+「助動詞『ば』)は末枯れる頃となったので、の意。
次に茂吉の自註。
「これは初冬伊香保で出月軍医の独逸行を祝した時に作った。・・・『雪ふる前の山のしづまり』はこれまでも幾度もこの観察をしたのであるが、此処でもそれを見て居る。」(「作歌40年」)
短い自註だが、雪ふる予感を寒さではなく「山のしづまり」に感じたところに、僕は注目した。これも主観表現である。紅葉、色、山と「客観写生」のように見えながら、そこには作者の主観がはっきり表現されている。
「寒さ」と「雪ふるまへ」では即き過ぎている。しかし上の句の「すがるれば」はやや声調がよくないが、声調・語感は時代により、個人により差があるから、茂吉自身はさほど気にしなかったのだろう。
このときには別に、
・笹むらは峡(かひ)をひろごりしづかなる色としなれば冬は来むかふ・
・もみぢばはすでにすがれて伊香保呂の山の木立に雪きゆるおと・
・黄にとほる松楊(ちさ)のひろ葉のもみぢ葉は現身(うつせみ)見ずて鳥は見るべし・
などの作品がある。ニ首目の「雪きゆるおと」の結句。雪が溶けて葉から落ちる音だが、これは聴覚を活かしている。「雪おつる音」でなく「きゆる音」としたのが、詩的把握である。
この二首目の自註が注目に値する。
「その時には伊香保の山に雪が降り、一夜明けて日光が差すと雪が盛に解けた(ママ)その時の趣である。この歌は重厚なところがあっておもしろい。『木立に雪消ゆる音』は全くそのとほりであった。」(「作歌40年」)
僕が注目するのは「全くそのとほり」の部分だ。「写実」という方法で事実を述べながら、詩としての表現の工夫がある。「暁紅」にはこのような洗練された叙景歌が多い。
岡井隆はこう言う。
「茂吉がいちばんリアルになって、写実に近くなってきたの『暁紅』『寒雲』などの戦中期で、『赤光』『あらたま』『つゆじも』のころなどは全然違いますよ。」(岡井隆・小池光・永田和宏「斎藤茂吉ーその迷宮に遊ぶ」)
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