岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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虹の輪の歌:佐藤佐太郎の短歌

2011年11月22日 23時59分59秒 | 佐藤佐太郎の短歌を読む
・潮いぶきたつにかあらん静かなる夜半(よは)にて月をめぐる虹の輪・

「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」119ページ。

 佐太郎の自註。

「その夜は晴れて月が美しかったが、海辺だから空気に潮気があるらしく月の暈のような輪があった。それを虹といってよいかどうかわからないが、『虹の輪』と言った。歌は独断であっても強く言うのがいい。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)

「伊良湖で一泊した。中天に満月がかかって月のめぐりに虹のような暈が見える。夜天に『潮いぶき』が満ちてゐるのだらう。それは私の解釈だが、解釈は多くの場合煩しい。この歌ではさう言って海浜静夜の空気が捉へられてゐる。」(「及辰園百首自註」)

 この作品については言いたいことが沢山ある。

 先ず、客観と主観の関係について。初句・二句目が主観、「あらん」と推量にしているところが、要天のひとつ。自然科学の立場から言えば、「潮」が息をするはずがない。だが作者は「潮の息吹」と捉えたのだ。これは主観であり、「潮の息吹のような」と考えれば、比喩それも暗喩に近いとも言える。三句目以下が客観である。

 次にその三句目以下。「月のめぐりに暈のようなもの」。これを「虹の輪」と言った。気象学では「虹とは大気中の水滴がプリズムの働きをして、日光が赤から紫まで層になってみえる現象」。だから夜に虹がかかる訳がない、と理屈をこねるな佐太郎短歌は永久に理解できまい。

 満月の夜、眩しいまでに月光が明るい。輝きを通り越したと思うほど明るい。そういう時は、月のまわりに「輪」が見える。スーパームーンというそうだが、満月の輝きも尋常ではない。いかにも幻想的である。見たもののほとんどは、絶句すのは間違いない。

 気象学を学んだ人は「嘘をついてはいけない」と言うだろう。それこそ「犬にダニがしがみつくように事実にこだわる」(佐太郎)ことに他ならない。いや知識にこだわっているだけだ。そういう時、知識は詩の邪魔をする。

「虹の環」をフィクッション・暗喩と見る読み方もある。

 佐太郎の作品を読んでしばしば感じるのは、これはフィクションだろうと思えるものが、かなりあるということだ。ただ「アララギ」出身の「写実派歌人」というポジションにあっては、これはフィクションとは言いにくい。だがそれは「アララギ」の約束事。それがまるで短歌全体の約束事になってしまったのだ。

 岡井隆はこう言う。

「もとはといえば写実派の短歌を読むときの約束にしかすぎなかったものですが、やがてこの派の作家が、歌壇の主要な位置を占めてしまうと1エコールの約束は全短歌の約束でもあるかのごとき様相を呈するに至ります。」

 僕はこれを「約束の一人歩き」と呼ぶ。




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